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初心者向けゲーミングPCの価格について

PCゲームを始めようと思った時、人はどういう言葉で検索するだろうか。まずはゲームのタイトルを検索する。そして、それがPC専用だったとする。その場合、家にあるPCが、とてもゲームなどは動かない場合、恐らく「ゲーム PC」などと打つに違いない。

 

そうした時に表示されるのはどういうPCかといえば「ゲームが動くゲーミングPC!」という売り手のページがヒットするのではないだろうか。

しかし、この「ゲーミングPC」。かなり性能に幅がある。

一言でゲーミングと言っても、エンジョイ勢からガチ勢までいるようにゲーミングPCにもエンジョイ勢とガチ勢がいる。

で、ゲーミングPC市場において、売り手が表示しているゲーミングPCというのは、これはもうガチ勢のことを指しているのである。

だから、平気で価格が税込みで20万円は越すレベルのものが売っている。

いやいや。

ゲームに初期投資20万は無理ですよ?

じゃあやめるか・・・。

 

そこで無事PCゲームなどという時間の無駄をしないですむ人生を歩める。いいことですね。

 

しかし、無駄な時間を過ごしてほしい私は、ここでエンジョイ勢向けのゲーミングPCを考えたい。どうしたらPCゲームを普及させることが出来るか。

 

経済学の教科書をひも解くまでもなく、普及させるためには価格を下げることが大事である。ならば20万を超えるようなPCは論外である。まずこれは大前提である。

では、次に自作かBTOかという永遠の課題を見てみよう。

しかし、これは特に問題となる項目ではない。

自作をすれば、PCの知識がたくさんつくし、しなければ自作についての知識はつかないだけである。自作ができないという人はいない。ただ知らないだけである。PCを使ってゲームをする以上、PCの知識ゼロでなんとかなるというわけにはさすがにいかない。もちろん、彼氏(彼女)に全部おぜん立てしてもらうということは考えられるが、それでいいのだろうか。というか、それでいいのなら、このエントリは読む必要は全くない。全部、彼氏(彼女)がやってくれる。だからこれは無意味な想定である。

だから、PCの知識がない場合、PCゲームをしたいと思ったら、まずはPCの知識をつける必要がある。(ネカフェなどの場合はこの限りではないが、無論このエントリは自宅のPCを個人で利用することを想定している)

これは難しいことではない。

最近の自作本などでは、懇切丁寧に、そういう読者も想定しており、PCパーツには大抵その説明がついている。

だから、まずPCの知識をつけようと思って自作本を買うと、PCの知識+自作の知識が自動でつくようになっているのだ。なんという便利さ。

つまり、事実上、この点は「本一冊買えば身に着く」という非常に簡単なステップで終わる。これすらできない人は、多分PCゲームの(親切でない)説明は理解できないので、そもそもPCゲームに向いていない。

 

自作とは、何をすることなのかというと、マザーボードという基盤に、ピンにはめ込むか、そこから伸びているケーブルをパーツに差し込むかして、それをPCケースに設置する。基本はこれだけである。あと、ケース内に風をつくるためのファンや、電源ユニットを入れる必要があるぐらいである。

PCパーツはそれほど多くなく、

マザーボード、CPU、CPUクーラー、メモリ、グラフィックボード、ストレージ、電源、ケース

以上8つである。

マザーボード:大体1万円も出せば十分なものが買える。ATXMicro-ATXMini-ITX)があり、大きさが違う。ケースの大きさと合わせよう。

・CPU:ピンキリだが、1.3万円~

・CPUクーラー:付属で十分だが、買うなら虎徹といったものがある。小さいケースだと大きいのは収まらない。

・メモリ:これにはいろいろな種類があるので、マザーボードにあったものを選ぶ必要がある。大体8GB1.2万~

・グラフィックボード:ゲームにおいては最も性能を左右するパーツ。大体3万円前後がメジャー。

・ストレージ:いわゆるハードディスク。「SSD」という種類のものが(ゲーミングでは)主流。大体1万円がボリュームゾーン

・電源:BRONZE、SILVER、GOLDの3段階の格付けがなされている。何が変わるかと言うと定格出力であり、高性能なグラフィックボードを積むと、出力を食うので、高い電源を買う必要があるということ。BRONZEなら7000円~

・ケース:大きい(ATX)種類のミドルタワーと、小さい(Micro-ATX)種類のミニタワーというのがある。ちなみに一番でかいのはフルタワーと言い、階層表現が全部バラバラなので最初は混乱する。マザーボードと大きさを合わせる必要がある。安い(小さい)ものだと3000円台からあり、1万円ぐらいで落ち着く。小さいのを買うか、大きいのを買うかというのは完全な好みなので何とも言えない。当然大きい方が取り回しは楽だが、場所を取る。

 

マザーボード1、CPU1.3、メモリ1.2、グラボ3、SSD1、電源0.7、ケース0.5

全部足すと8.7万円である。

ゆるく設定してこれぐらいである。もっと切り詰めることはできるが、切り詰めれば切り詰めるほどタイトな条件になっていくことは当然である。つまり大体これぐらいを上限と(エンジョイ勢PC的には)みておくことができるのではないか、というのが8.7ということになる。またせっかくなら楽しくゲームをやりたいので、切り詰めてギリギリの環境でやるよりは、そういう感じのない環境の方がいいのではないか、という趣味志向も加味している。(PCケースは割とギリギリの価格…)

20万という数字から8.7万にまで減らすことができた。

見てわかるようにグラボが大きな数字を占めているのが分かると思うが、正直なところこれはオーバースペックだと思う(しかもi3)。だから切り詰められるが、そこは各々の判断であり、標準的には妥当だと思われるのでこの数字となった。

 

まずはお値段の方をざっと調べてみた。

もちろん、実際に選ぶときはもっと細かい想定が必要になるが、標準的な性能、メーカーで選ぶことを想定した。

またパーツにはそれぞれメーカーがあり、これも選ぶ基準となる。

 

 

書きながら調べて行ったので、いくらになるのか分からなかったが、個人的には「やや高い」という感覚になった。やはりグラボが高い。

しかし20からは50%以上減らせたのでよしとしよう。

もちろん、切り詰められるが、この価格には「高品質なゲーム体験を経験してほしい」という思いがある。確かに安くは出来るが、それではゲームの持ってる品質のポテンシャルを存分に体験できない、という状況が生まれてしまうのである(ブラウザゲームなどは違うが)。特にPCゲームは幅があり、逆に言えば落とそうと思えばかなり落とせる。しかし、それではやはり…という感じがする。逆にここからたとえば数千円減らせたとして「なんか…ショボくね?」という体験になるぐらいなら、その数千円分はどれほどの意味があったのか、ということである。せっかく数万払うことになるのは同じなのだから、だったら妥当な性能にしておくのがよいのではないか。

ここまでくると「買い物の仕方」の話になるので難しいが、このエントリの目的は標準的な初心者向けゲーミングPCの価格を見てみることなので、8.7という数字は、「ああ、まあ…そんなもんだろうね」という実に想定通りの価格に落ち着いたという、なんというかなんの驚きもない結果に相なったわけである。

しかし、一応8万円台に収まったのは嬉しい。

アニメ批評の憂鬱

~何事も継続していくのが大変/大事だよねって話~

 

ユリイカ涼宮ハルヒが特集されたことに驚いたと同時に、しかし本心では驚かなかった自分がいた。

魔法少女まどか☆マギカの批評のあり方は、もう驚きのあるあり方ではなくなっていた。正直書いてあることを読んでも、意味がわからないし、引っ張ってきた思想的なアレコレ(ジャーゴン)を無理やり作品に当てはめているようにしか思えなかった。

私が最後に批評らしきものを書いたのは『Charlotte』が最後である。

それはやはり、作品に驚きがあったからにほかならない。

批評とは、ある種その驚きをなんとか自分の中で納得出来る形に変換するという営為だと思う。

 

かつて見ていた批評サイトは軒並み更新を停止し、新たな批評サイトは誕生しない。

Charlotte』の時も、批評など書いてるのはほんのごく僅かな人間だけだったように思う。あんまり検索しなかったから分からないが。

当然、批評サイトも、同じ作品ばかりにかまけてるわけにはいかない。しかし、新しい驚きの作品が生まれないと、批評サイトは活動を停止してしまうのである。そして、その更新期間の空きが起こると、次の復活はもう、ない。

このはてなブログは一時期は99%ぐらいを「けものフレンズ」の一つのエントリーで保っていたのです。しかし、ワタシ的にはあのエントリで言うべきことは言い尽くしたので、特に言うこともなく、当然けもフレで更新はもうできません。しかも、スタッフ周りがあんなことになったので、一気に冷え込んで新たな材料も降ってくる気配もありません。そういう時、批評系はどういう方面に行くかというと、伝統的なのが「古典」に行くパターンですね。まあこれはプロの話であって、ネットの素人界隈では、まあそういう方面にいくことは難しいんですよね。結果、更新停止という・・・。

 

世間的には、今のアニメはどうなのか。

まどか☆マギカのブームの後に、ラノベアニメブームが来たように思うんですよね。で、その内実はまあ色々あったと思うんですが、最終的には魔法学園的なアニメが不評を買って、一方でSAOという中高生に大人気の作品が継続中という中でそして今は異世界転生がラノベでブームな中、アニメもその果実を取り込もうとして取り込めたのか取り込めなかったのかという中でゆるキャン△という困った時のけいおん頼り(ごちうさ等の例)という状況だというのが私の見方ですが、同時にガチャゲームという文化が発生したことによる変化もあったり明確な女性向けの深夜アニメが勃興したり没落したりという水平的な変化が今は大きいように思えます。

仕事を時間どおりに終えられないマネージャーは優秀なマネージャーとは言えない

仕事を時間通りに終えられないにもかかわらず、そういう人間を「優秀だ」といったり「熱心」だといったりする風潮がある。
しかし、これは間違っている。

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後期クイーン問題 名探偵は神だろうか?

後期クイーン問題というのがある。

知っている人にはお馴染みなので本エントリでは細かい説明は省かせてもらうが、いわゆる「本格ミステリ」の話題が上る時に、ほぼ決まって取り上げられる題目である。

一言で言えば「探偵はどのようにして真実にたどり着けるか」ということである。
また「探偵も間違えるんじゃないか?」というツッコミに、本格畑の人々は驚き、動揺し、騒然となったのである。

そして、それ以降、様々な手法を用いて、この「後期クイーン問題」を回避、ないし解決しようと、本格ミステリは邁進してきた。
その一つに「神の導入」がある。
いわば、神からの宣告として、証拠の真実性を保証する、ないし、要は名探偵の推理は神に保証されているという解決である。

しかし、これでいいのだろうか。

確かに、それまでの本格ミステリは、「探偵の推理=真実」というものであるので、それを「疑わない」ということが「ルール」になっていた。
探偵様の言うことに反論など許されないというわけである。
しかし、少し冷静になってみよう。
人間は神か?
違う。
人間は所詮人間である。間違いやミスも犯す。
それこそが人間なのである。
それを、無理やり神だなんだと持ち上げる。それは「間違えてはいけない」という強迫神経症にも似た状態に、本格ミステリの読者ないし作者、その界隈がその症状に陥っていた。

やや情緒的な説明をしてきたわけだが、もう一つの考え方は、これに科学哲学の手法を導入することである。
何が言いたいかと言えば、カール・ポパーの「反証可能性」の概念のことである。
つまり、探偵の推理は、あくまで科学的な「仮説」でしかないということである。
しかし、探偵の推理が、反証可能な仮説にすぎないというのは、逆に言えば、これは探偵の科学性を示していることになる。
神や占い師の「ご託宣」にならずに、探偵の述べる推理は、あくまで人間のレベルにあるということである。

なぜこのような「問題の問題」に本格ミステリ界隈が陥ったか。
それは本格ミステリ「パズル」だと考えすぎたのが原因ではないだろうか。
ある種の「社会派」のトラウマというのだろうか、社会から切り離そうとするあまり、論理の呪縛に陥ってしまった。
仮にパズルだとして、「1+X=2」としたなら、答えは「X=1」である。
それに対し、「いや不完全性定理だから数学の証明は出来ない」というのは、これは一つ段階の違う話である。
あとは哲学的な話になるだけである。
しかし、現実はあくまで現実である。もちろん、哲学の話にもできるが、それでは現実は一つも進まない。
科学もその哲学的な問題にぶち当たるが、それは科学哲学という分野の中で、話が進んでいる。
本格ミステリは、突如として独我論の罠に捉えられ、抜け出せずにいる。が、そろそろ抜け出てもいい頃合いではなかろうか。

そして、探偵を人間に戻してあげてはどうだろうか。

「君の名は。」の考察。 その原因論

(よく見たらタイトルすげえネタバレだったんで一応。あと検索で映らない用に少し下に本タイトルを)

いくつかの考察ページを巡っていたが、この根源的な問題を、問題として掲げてすらいなかった。

なぜだろうか? それは分からない。

とにかく、ここで整理してみよう。

 

本タイトル:「君の名は。」のタイムトラベルは何が「原因」で起きたか?


筆者は地上波版しか見ていないというものだが、それを見る限りでは、タイムトラベルのきっけかは分からない。
しかし、よく見ていると、組紐が重要な役割をしているようにみえる。
三葉が渡した組紐のおかげでタイムトラベルが起きるとは、明示されていないが、そうであると仮定すると、分かりやすい。(要はタイムマシーンの役割を果たす)

そうであるとすれば、どうなるか。

三葉が組紐を渡すきっかけは、瀧とのタイムトラベル型人格交換というものである。
しかし、そのタイムトラベル型人格交換が発生するためには、三葉からの組紐の受け渡しであるとすると、これは無限ループする。よって以下では組紐ではないと考えなければならない。(矛盾する)

仮に組紐が関係ないとしても同じである(先に言ったように、単に分かりやすいというだけである)。
瀧がタイムトラベルする「原因」が必要なのである。


三年前に気づかない、などということは驚きをもたらす重要な要素だからまあそれはいいとして、この無限ループは根源的な矛盾なので、遥かに重要な問題である。


では、この無限ループを解く鍵はどこにあるか。
それは瀧の「過去へのタイムトラベル能力」をどこで得るか、というものである。
これこそが根源的な問題である。
そして、その「過去へのタイムトラベル能力」を得るのは、自分とは無関係な人間でなければならない。なぜなら、自分を「原因」とすれば、では、その原因はどこかといえば、やはり自分に返ることになり、これは先程の無限ループということになる。

つまり、瀧のタイムトラベル能力を、瀧が過去に及ぼした影響によって得てはならないのである。わかりやすくすれば、タイムトラベルの作り方を未来の自分から教わることを起源にすると、無限ループが生まれてしまうのである。当然、一回目の、何かのきっかけがなければならない。

また、なぜ三年後なのか、というのも一つの問題である。
この点にツッコんでる人を見たことがないのだが、なぜ誰も疑問に思わないのか?
三年後、瀧が高校生になった時点ですでに糸守は跡形もないわけです。
その三年後、突然カルデラ御神体パワーが発現し、瀧に三年前へのタイムトラベル(+三葉の身体乗っ取り)能力が備わったのか?
一年後ではいけなかったのか? あるいは二年後では?

なぜ瀧だったのか、というのは、それほど難しい問題とは思えない。
もちろん公式設定ではないが、糸守の代々受け継がれている入れ替わり能力。実はそれは御神体パワーが元なのだが、その時の入れ替わりの子孫が宮水家であるが、その片割れこそが瀧なのである・・・という設定を用意するだけで、これは補完できる。
(言い伝えの中に”滝”がどうのこうのという設定もあるらしい? とすればより補強するものになるのではないだろうか。まあこれが瀧が名字だったら尤もらしいのだが、瀧の名字は立花なのである・・・)

もちろん、そうではないものもあるようで、いわば瀧にチューニングするように徐々に瀧になるという案もあったとか。しかし、これとて瀧に収束してるわけだから、やはり瀧の特別性は失われていない。

原因論」に戻ろう。
では、どのようにこの無限ループを解決したらよいか?
私の仮説であるが、それは「実は何度もタイムトラベルは起きている説」である。

 

よくある「エ○ァンゲリオン 究極解体新書」の類な感じになってきたが、公式設定にない部分に踏み込むとやはりそういう雰囲気が出てきてしまうのであるなあ。

ともかく、この説を見てみよう。
仮に、瀧がタイムトラベルをするのが、「一年後」であった場合はどうだろうか。
瀧は、実は2014年、即ち彗星落下の翌年、糸守にタイムスリップしていた。
しかし、この時は糸守の救出に失敗。これは誰にも描かれない世界線として存在する(ほぼ最初の糸守崩壊シナリオと同じ)。
翌年、2015年、瀧は再びチャレンジするも、このときも失敗。残念な話である。
そして、三年後の2016年。これが我々が見ている「君の名は。」のシナリオである。
瀧は見事、糸守住民の救出に成功。組紐のゲットは、たまたま三葉が起こした偶発的な行動であり、これがなければ恐らく最後の再会もなかったであろう・・・。

 

という説である。
いかがであろうか。
これなら無限ループは回避されるのである。
もちろんなぜ年に一回(の時期)なのかといえば、それが日付が同じ日でないと起きないからである。なぜ同じ日にならないと起きないかといえばそれは七夕だってそうだろ! ということである。つまり、具体的な意味はないが、年に一回、たとえば御神体パワーが貯まるのがその時だとか、まあどうとでも理由は付くのではないだろうか。いずれにしろ論理的に矛盾する無限ループよりはずっとマシなのである。

「それなら三年に一回でもいいじゃないか」という意見があるかもしれない。

・・・。

そうだね!

また、なぜ入れ替わりが途中で止まるのか、というのも気になる点である。
これも答えているページが見つからなかったが、一つは組紐を渡したから、というもの。これはロマンチックだが、そうであると、組紐こそがタイムトラベル能力を有する事になり、これは危険な無限ループへと突入するので、俺としてはこれ以上考えたくないからやめて欲しい。
もう一つはやはり断髪したから、ではないだろうか。友人たちも驚いていたし、それほど衝撃的な出来事だったことを映画が伝えているからである。



実はこのエントリ、「矛盾を発見した!」と思ったことに触発されている。それは三葉が瀧に組紐を渡した日があるのに、瀧がその日に戻ったら組紐渡しの事実がなくなるやんけ! というものである。しかし、それは彗星が落ちる”前日”だったので、あえなく俺の説は崩れた。

 

そして、考えれば考えるほど、「君の名は。」はよく出来た映画だったのである。
特に、彗星落下の日、瀧が三葉の身体に入り、色々した後(変な意味ではない)、カルデラで三葉(自分)とかたわれどきに出会う場面、当然、三葉が勝手に行動してたらどうするんだと思ったが、すぐに、そういえば瀧は足を滑らせて後ろに倒れていたな、と。
答えは当然、頭を打った瀧に入れ替わっていた三葉は、あのかたわれどきまで気絶していたということである(と思う)。まあやや長い気絶かもしれないが、これなどはまさに舌を巻くというべきで、実に抜け目ない。

 

また、そのカルデラのシーンで、入れ替わりが終わると、いきなり瀧が三葉の名前を”忘れる”シーンがある。
しかし、それは違う。
なぜなら、この入れ替わり終了後の瀧は、その直前の瀧とは全くの別人、別の世界線の人間なのである。だから、あの瞬間、観客の目の前にいる瀧は、三葉との入れ替わりなど一切していないし、中坊の時に組紐を三葉からもらってもいない。なぜならその世界線では糸守住民は全員無事だからであり、入れ替わりは必要ないからである。
このことも観客が理解していないと、なぜいきなり瀧が三葉の名前を”忘れた”のかを、「夢だからかあ、にしてもそんなに急に忘れるか?」と勘違いしてしまう。忘れたのではなく、瀧は三葉という名前を「聞いたことすら」もないのである。
「マジックペンがあるじゃないか!」と思うかもしれない。確かにある。だから、あのシーンはギリギリなのである。そもそもあの瀧(の身体)は、あの瞬間、2013年にいるわけである。そんなことはあり得ない。しかし、あった。それがあのシーンの真の意味なのである。だから、我々から見ると、2016年の世界に三葉が来ているように見えるが、そうではなく、瀧の方がタイムスリップして来ている。そして、かたわれどきだけに会って、それが終わった直後、2016年にふっ飛ばされる。しかも瀧自身は、なんと歴史改変後の自分なのである。非常に複雑だが、こうなっている。だからマジックペン如きどうでもいいのである。まあそれは冗談だが、だからあのマジックペンこそ瀧とともに2013年から2016年(歴史改変後)に”世界転移”した強者だと言えよう。(むしろ瀧に触れていたマジックペンこそが残ったのは理屈の通った話ではないだろうか)

ここまで考えた時に、では、我々が見ている「三葉」の世界線とはどのようなものなのか? という点が浮かび上がる。
これは明らかに、失敗した世界線で”なければならない”。

 

どういうことか。
すなわち、映画を見ていくと、一度、糸守救出は明らかに失敗する。それは夢ではなく、世界線の中の現実である。
そうでなければ、三葉が友人と夏祭り(?)を楽しむシーンがなくなる。あのシーンは、失敗した世界線である。明らかにあの後避難は失敗する。
しかし、その世界線は、我々が映画の中で長い間見てきた世界線であるはずである。三葉は入れ替わりを経験しているし、瀧に組紐を渡してもいる。
にも関わらず失敗している。
これは私の上記の「三度目の正直説」を裏付けるものではないだろうか。
つまり、あの世界線は、どのように形成されたのか、というものである。

 

しかし、この点で大きな矛盾がないだろうか?
つまり、映画では「三年後」の瀧であるにも関わらず、失敗しているではないか、と。
確かにその通りである。であるならば、あれは、三年後の瀧であるにも関わらず失敗した世界線が存在するということを証明しているのである。
あの夏祭りシーンが、”完全な虚構”でない限り、つまりどこかの世界線に存在した、ということが確かであるなら、明らかに「三年後の瀧であるにも関わらず失敗した世界線」が存在することを証拠付けている。

 

残念ながら、やはり「一年目、二年目説」の補強にはならないようだが、我々が見ていた彗星落下直前までの世界は「失敗世界線」だったということが分かった。
まあある意味ではそれは当然なのだが、つまり、作中時間が一時的に戻ってるのが口噛み酒のシーンであるから、あの後の世界が歴史改変後の世界線になるのである。そうであってみればあれほどのダイナミックな映像が流れた理由も分かる。

 

つまり、自分が糸守救出に失敗した世界で過ごしてきた瀧だが、口噛み酒を飲むことで過去に戻り、過去を変えることで歴史を変えたという、再びシンプルな構造の前に返ってきたわけである。

また、瀧が三葉の死んだ世界線で生き続けるという説を読みましたが、それはありえません。なぜなら、瀧が過去を変えてしまったからです。もちろん空想的には存在しますが(つまり実在しないということですが)、それは歴史には含まれません。
これは「リプレイ」世界である場合は、あり得ますが、「君の名は。」のタイムトラベルはあくまでも同一主体の問題なので、複数の主体が存在するわけではありません。
一度口噛み酒のシーンでリプレイしているように見えますが、あれは単にタイムスリップしてるだけなので、それ以前に戻って改変してしまった以上、あれ以降の世界はあの瞬間以降は実在を停められます。

 

これは逆に「ループもの」に慣れ親しんだ人からすると逆に難しく感じられるかもしれませんが、「君の名は。」はループものではないので、主体が複数に分裂することはありません。
私の「一年目、二年目説」もリプレイではなく、あくまでリニアな話です。