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インターネットで何ができる?

問題等ありましたらコメント欄にお願いします。(意見要望等は承認されません)

美少女・アイドル・性

美少女性とはなんだろうか。

言うまでもなく妄想である。

しかし、これが単に一部の嗜好の作品としてあるならまだしも、現実の女性にあてはめたり、バッシングしたりするようになると、それは問題である。

 

そうでなくても問題だという考えはあるだろうが、物事には深さがあり、順序がある。

少なくとも、現在のある岸から一歩先に進んだ時点のことを、書くというのがこのコンセプトだ。焦りすぎてはいけない。

 

アイドルにあるのは何か。

女性の性欲の抑圧である。

元々、女性に性欲があることは分かっている。だから、抑圧するのである。抑圧するから、その抑圧が破られた時、抑圧を与えていた側は憤激する。

しかし、この抑圧は全くのところ矛盾している。

そもそもが、アイドルというのは、女性の性欲を搾取する形態である。

元々女性に性欲(性愛)がなければ、女性はアイドルにはなれない。

それは、客を性愛するという行為を、要求するからである。それは歌にも「あなただけを愛する」というような、「愛」の要求がある。つまり、アイドルは人間である。

一方で、そうした形で、人間的な女性としてある存在が、ほかならぬ男から求愛されたならどうするか。それは相手に答えるのが当たり前である。

しかし、アイドルビジネスではそれはいけないという。それが抑圧である。

 

こんな話を説明しなければならないことに知的な人は驚くかもしれないが、事実はそうなのである。

未だに「女性には性欲がない」と考えているような男もいるし、男と付き合う女性は「ふしだらだからそうしている」などと考えるいい年した若者(?)もいるのだ。

女性は単に男から求愛されたから答えているに過ぎない。しかし、それを見過ごして「熱愛報道」などは、女性がふしだらに遊んでいるとか、騙されているというイメージを与えることに力を集中する。

この社会様態が浅薄で幼稚なものであることは言うまでもないが、物事を分けて判断することを苦手とする人々はそのような自己矛盾に気づかない。

それは、たとえほかのことに詳しくても、このような社会批判を口にしない人々が陥っている罠である。そして、その誤った商売に乗ってしまう人々である。

素敵な男性に告白されたら? 付き合うに決まってるだろ。

素敵な男性に誘われたら? 嬉しいに決まってるだろ。

そういう当然のことが分かっていない。それが不思議でならない。

「金を払ってるんだから言うことを聞け」などと言う言説もあるが、これはもうまさに「性の搾取」以外の何ものでもないことを自ら暴露したことであり、語るに落ちるということである。この言説に反対を唱えられないのはおかしい。

しかし、このような社会問題は決してマスメディアでは取り上げられない。

その他のこと(あれが面倒だとかあれが古いだとか)は取り上げられても、決してそのことには触れないのがマスメディアなのだ。これは「意図的」だということは申し述べるまでもないでしょう。なぜなら、日本のマスメディア自体が、その「性の抑圧」で商売しているからです。

ではどうすればよいのか。マスメディアにはもう期待できないということは、ネットユーザの人達にはよく分かっています。

だからこそ、今はブログやツイッター、インスタなどで多くの人たちが活動しているのです。

これが人間の力です。いくら押さえつけようとしても、外側に広がっていくのです。

社会的な前進は当事者によって作られるものである。

力強い人々が、そのようなメッセージを発することで社会は少しずつ変わっていく。

日本の目指す<方向>

今日の前回の記事でいきなり「読者」がついてしまったわけですが、これ、このブログは基本「オタクブログ」なので、非常に申し訳ない気分になっているわけです。

 

それはさておき、前回の私のエントリは日本の政治関係に散見される「誤魔化し言葉」について述べたわけです。これは婉曲や言い換えというやり方で、大東亜戦争満州事変~太平洋戦争)の反省として、強く語られていたことです。「撤退」を「転進」と言い換えるとかのアレです。

これはメディアにおいても重要で、だから90年代のテレビにおいては、戦争の話をする時はこのことが取り上げられていたわけですが、最近は全く取り上げられることはなくなりました。それはメディア自身が、ただ単に政治家の意向を汲んだ報道をするだけになり、メディア自身が、政治家や官僚の答弁をそのまま流し、一応は「疑問の声も」などという意味不明の言葉を使って「紹介」するも、これは議論ではなく、かの悪名高き「両論併記」法でしかなく、この「報道スタイル」は全く悪いものだということがすでに反省されているにも関わらず、それを臆病にも行う姿勢になっていることからも明らかです。(「疑問の声も」というのは私が嫌いな言葉の一つなわけですが、これは、ほとんど意味を成さないというか、まるで「幼稚園児の言葉遣い」なのです。要は「え~~~だけど~……(以下無言)」という言葉であり、ここで優しい保母さんになって「ん~? どうしたの~?」と聞いてあげなきゃいけないという態度なのです。これは報道していい言葉ではありません。つまり、

政治家「◯◯という風にしていきたい」

アナウンサー「しかし、…(手を動かすジェスチャーをし、意味深な拍を取り)これには疑問の声も」

というのは、

政治家「◯◯という風にしていきたい」

アナウンサー「え~う~ん~そうかもしんないけどぉ~」

というように言っているだけなのです。

本来、報道の側が「疑問」とか使ってはいけないでしょう。それを追求するのが報道の役目なんだから、「えぇ~!わかんなぁ~い!」みたいな態度とってることが異常なんですよ。普通(まあ私が見ているアメリカの報道ですが)なら、

アナウンサー「ですが、これにはこれこれこのようなことがあり、全く非現実的です」とか「しかし、かつて彼はこのように述べており、整合性が取れていません」

と言うように、「主張」としての「論評」があるわけです。

翻って日本のメディアでは「今後どうなっていくのでしょう」(俺は知ったこっちゃねーけど)という投げやりな態度が明確で、これは全く現代的な報道としての機能を満たしていません)

つまり、かつては「日本の反省点」を取り上げ、よく議論していたわけですが、最近では完全に失敗した(未だにインフレ2%にならない)アベノミクスの「反省」をすることもなく、なかったことにしているということで、つまり「意図的忘却」を行うことで「無反省状態」に陥っているわけです。だからこそ、戦争の反省もなくなり、ゆえに、戦争で反省したはずの過ち(大本営発表型報道)を再び繰り返しているというわけです。これはシンプルな話ですね。

 

つまり、あのような「言葉の濫用」は、かつてはそれが日本を誤った方向へと導いていたわけです。それは、人々が政策を議論したり、何が正しいかを決めたり、反省したりするための道具は「言葉」しかないわけですから、その言葉がいい加減な使われ方をしていては、まるでいい加減な物差しを使って家を建てるがごとく、崩壊へと向かうことは明らかなのです。

 

もちろん、そのような基礎的な「反省」も必要なのですが、では未来へ向けてどのようなことを議論すればいいのか。

これが今世界中で求められているわけですが、日本に入ってくるのは国際政治の大国、アメリカ・ロシア・EU・中国といった国々の情報ですが、日本は明らかにそれらの国とは重要度では落ちるわけです。カナダやオーストラリア、北欧といった国々と同じぐらいでしょうか。

かつては日本はGDP世界二位となった国ですが、もはやそのような繁栄は今後「あり得ません」。

であるなら、どうするか。

今後は否応なく世界はグローバル化へと向かいます。

当然、その中で各地での覇権争いが勃発します。

世界はより「接近」し、より「流動的」になるでしょう。

そうなった時、日本はどのようにして国民の幸福を実現するのか。

その「人々のあり方」を根源から議論する必要があるでしょう。

もちろん、そこまでのインテリジェンスのある人間というのは日本にはほとんどいないでしょう。

しかし、若い人々は、そういう日本で生きていくのですから、それは考えておいた方がいい。

というより、今の現役世代はそれを考える責任があるでしょう。

恐らく、日本の優秀な人は今後大勢海外に逃亡するでしょう。それは若者であり、また大企業も同じです。ジャック・アタリ氏によれば<サーカス型企業>というものが今後主流になるとしています。これは普通の言い方に直せば「グローバル企業」ということです。◯◯サーカスのように色んなところに来て商売することを意味します。

それは現実としてあります。そうなっては困るというのであれば、どうすれば自国を魅力的に出来るかを考えなければなりません。少なくともその方法はアベノミクスなどではありません。アベノミクスを続ければますます海外逃亡者は増えるでしょう。

まずは日本の大学をまともにし、また企業の採用方法もまともにすべきでしょう。就活とかいう意味不明のガラパゴス制度はすでにバージョンアップを怠った時代遅れのブラウザのように「腐った牛乳」になっており、「機能不全」に陥っており、多くの人がそのソフトウェアによる強制フリーズやクラッシュに悩まされています。

そういった各地で起こっている「歪み」を正すには、正しいビジョンを持たなければなりません。

それは「こういう国にする」というビジョンです。ちなみに、こんなのはダメです。

・円安により輸出が増加!

・製造業が復活し、工場が大量に新設、投資額アップ!

・学校は文科省の支配をより厳しく! 道徳の授業では「朱子学」を!

・残業時間を月90時間に確定! というかむしろ残業じゃなくて普通にやれ! 国民の労働時間を現在より30%アップ!

・有給の法制化を見送り! むしろ有給いらない! 24時間働けます!!

・正社員廃止! 国民は全員派遣社員になり、ピンハネが横行!

・なんやかんやでバブル経済の到来! 大インフレ時代! あの時代が蘇る!

 

これがいわゆる「昭和脳」です。頭が痛いのは、大体政府は今これを目指しているという笑えないアレなんですが。

ではどうすればいいか。大体逆のことをすればいいのですが。

まあこれは私の持論なんで、細かいビジョンというのは色々あると思いますが、そういうものを作ってそれに向かって行くというふうにしないと、散発的にアドホックな対策をしても無意味なんですね。

 

グローバルか保護主義かとかいう問題ではないんですよ。

これからは国は、魅力がなければ、まるで「つまんない田舎」の如く、あっさりと引っ越しされてしまうようになるわけです。

そうするとどうなるかというと、税収が減りますよね。つまり、経済が不活化して、その国は落ちぶれて行きます。

人を出さないために、企業の税金を下げれば、格差が増します。税金が高くてもいてくれるようにするにはどうすればいいか。それは快適な魅力的な国であること以外にありません。一言で言えば「競争力」ですが。

では、日本にその「競争力」があるか。

もしあなたが英語がペラペラだったら、日本にいるか。

オーストラリアかカナダか、シンガポールかアメリカか意外と通じるらしいドイツか。

そういうところに行ってしまうのではないか。

日本の英語教育はわざとなのかあまりにもアホなのか知りませんが、全く役に立ちません。だから、若者はクソ教育を受けさせられるという最悪な状態なわけで、つまり算数で言えば非常に質の悪い、高校3年生になっても2次方程式が解けないというような人を量産してるわけですね。だから子どもたちはもっと怒っていいわけです。高3になっても、小学生レベルすら話せない英語の授業を受けさせられているのですから。日本人は恥ずかしがってるから英語話せないとか言う奴いますけど全然違いますからね。「話す時の英語」を「知らない」から話せないだけであってね。だって、「こんにちは」「ご機嫌いかがですか」「今日は雨です」ってこんな英語教えられて喋れるかっつー話なわけで。Hey, What's up? って感じで普通の英語を知らなけりゃ話せませんよ。

まあそれはともかく、英語教育が今後は活性化されるでしょう。なぜならそっちの方が「経済性」があるからです。はっきり言えば、若い人で日本で働きたいという人は少ないでしょう。それは日本の自業自得ですが、日本の若者が海外に出ていくのはそういう経済性とグローバル化により人材の流動化が起こることの2つによります。

 

つまり、「国を魅力的にする」ことは、今後かなり重要になるのです。

それは、今までは国の競争は「民間が勝手に頑張る」でしたが、今後は民間は平気で国を離れるようになるので(グローバル化)、それを維持する必要があるのです。で、民間とは既存の企業だけではなく、人材も同じだということです。スーパープレゼンテーションでMITに勤めている日本人の二人がいますが、彼らのように「外国で仕事をする方がいい」という人が増えていけば(だってどんな日本の大学でもとMITだったら絶対MIT取るでしょ……で、それはもっと下の大学でもいいでしょ。どの辺かまでは人それぞれだろうけど)、どんどん高度人材は流出し、競争力はさらに下がるでしょう。

だから、私はそういう意味で国を改善すべきだと言っているわけです。

それを怠れば、単純に国力は下がっていくよ、という当然の結果を言っているだけです。

誠実さのない政府

家計調査(二人以上の世帯)平成29年(2017年)3月分速報

((現時点)統計局ホームページ/家計調査報告(二人以上の世帯)―平成29年(2017年)3月分速報―

【二人以上の世帯】消費支出(実質)

2017年3月:マイナス1.3(前年同月比)、マイナス2.0(前月比)

 

 

どうやら政府の頭の中ではマイナスになっていることが「回復」らしい。

つまり、財布から金が出ていくことを「金が増えている」と言っているに等しいのであり、これは全く誠実さを欠いている。

たとえるなら、飛行機が事故。水平から下降しており、地面に向かっている!

そんな時、機長はこう言う。

「え~飛行機は現在回復しております」

事実は、下降速度が300から200になっただけだというのに。

実際には下降しているのに、「回復している」という表現は間違っている。

 

別のたとえを使うなら

「現在出血中です!!」患者の出血が止まらない。しかし、オペ担当医師は看護師にこう言う。

「いや、回復してるから。全然」

「してねえよ。止まってないよ。」

つまり、これは「回復」という言葉を「増加」「上昇」という意味で使っているのではない。しかし、そんなことは、単なる屁理屈であり、そこが「誠実さを欠いている」点なのである。池上彰さんの言う「霞ヶ関文学」というやつなのだろうが、こんなものは<文学>などではなく、臆病者の誤魔化し表現だ。

 

たとえば、何かの企業で、不良品が100コの内5コだったのが、20個になってしまったとしよう。取引先のAに

A「おいおい。一体どうしたんだよ」と言われたが、担当者Bは

B「次は良くしておきます」と答える。

次の納品では、不良品が20個から25個になったとしよう。

A「てめえ何してやがる。不良品増えてるじゃねえか」

B「いや、前々回は良品率が95から80で、マイナス15%だったけど、今回は80から75でマイナス6.25%でしたから。良くなりました。回復しました。というか『緩やかな回復基調が続いてい』ます。だって政府が景気の時にそういう風に書いていましたから私は間違って……あれ?どこ行くんですか?……」

Bさんは取引先を失った。

 

つまり、これは言葉の濫用なのである。

もし、「回復」という言葉が、このような「マイナスに向かう速度(パーセンテージ)の減少」という意味でしか使えないなら、使うべきではない。

そのような時は、消費の状況を表現する言葉は、

「上昇」か「下降」

の2つである。そうでなければ、飛行機や医療、または工場といった厳密さが求められる現場で、言葉というものが機能しなくなる。

飛行機が「直った」「回復した」といったのに、事実はそうでなかったら。

医者が、体は「治った」「回復した」と言ったのに、実際にはそうでなかったら。

それはヒドいことになる。

だから言葉は「正確」でなければならない。

だが、政府が率先してそのような「正確」な言葉を使わず、それでいて恬として恥じないでいては、非常に危険なことになるだろう。

実際には出血が止まらないのに、出血の量が10から8に減ったところで、医者が「回復してる」と言い、それを真に受けて外を走り回ったらどうなるか。その人は危険な状態になるだろう。

そういうことなのであり、「回復」という言葉を勝手気ままに使っていいということではない。これは些細な問題に思えるかもしれないが、これはとても大事な点なのである。

なぜなら、言葉で政府とつながっているのである。

その言葉が信用できないもの(出血が続いているのに、回復しているなどと誤用をするようなもの)であるなら、国民は政府への信頼を失う。

霞ヶ関文学」などと開き直るのではなく、政府の言葉は「正確に」記さなければ危険な航海になってしまうだろう。

実際には、船に水が入り込み続けているのに、港に引き返さずに「船は回復している」と言って、そのまま航海に出てしまえば、船は沈んでしまう。

そういう危険があるから、言葉の使用は正確にしなければならないし、特に経済報告ではその正確さが重要になるのである。

 

ちなみに、

http://www.stat.go.jp/data/kakei/2013np/gaikyo/pdf/gk01.pdf

を含め参照、個人消費支出の増減対前年比は

2010年:0.3

2011年:-2.2

2012年:1.1

2013年:1.0

2014年:-2.9

2015年:-2.3

2016年:-1.7

 

です。

もはや何が好景気で何が不景気なのかは誰にも分からないだろう。

 

価値のないテレビ

今テレビを見ていたら、

「女性のムダ毛の話題」や

「ブラジャーを初めて着けた時の気分」

などを話題にしていた。

もちろん、それをNHK的な「お悩み講座」的にするならよいのだが、単にバラエティとして、見世物として取り扱っているだけなのである。

 

これはまさに下世話であり、そういう三文コラムみたいなのが載ってる雑がみに等しいものである。

 

このようなものを見ることに一体何の意味があるのか。

私はかねてからテレビの質の低下を指摘し、ネットに取って代わられるという話をしていた。しかし、それはあくまで「産業構造」としての話であり、中身は別のことであった。

しかし、今やテレビはその中身としても低レベルになっているようだ。

 

テレビ(地上波)は必要だろうか?

私はついに「否」と完璧に答えることが出来るようだ。

イデオロギーの終焉 利益の<イデオロギー>

資本主義と共産主義の対立というのは、「どちらが社会正義か?」ということの<イデオロギー>の対立であった。

しかし、そのイデオロギーは消滅した。

なぜか?

それは「社会正義」の消滅によってなされたし、「社会正義」の消滅によってしかなされない。

 

もはや社会正義は「金儲けのための手段」でしかない。

それは飽くなき利潤追求の一途である。

そのようになっている時、なぜ利潤を目指すのか? ということは問われない。

利潤を目指さないこと、つまり会社が傾いたからといって公金を何度もおかわりするようなことは公正ではないが、弱者を搾取することで利潤を上げることは公正とみなされる社会。それが拝金主義である。

 

貧しい人を食わせるために立ち上げるのが会社なのではなく、「俺が儲けたいから」会社を起こす時代。

よい目的を達するために育て上げるのではなく、搾取したいがために事業を行う時代。

それが進む先はどうなるのだろうか。

 

イデオロギーの対立は終わった。

次は、社会公正を達成するべき時代に入っているといえるだろう。

実際、ヨーロッパではそうなっている。

しかし、この国においては、恐ろしくその傾向は下火だと言える。

その舵取りを誤れば、ありとあらゆるものが腐敗・堕落していくだろう。

ゲームで美少女ゲームがNO.1になるということ

言うまでもなくFate/GOのことである。

 

私はFateをゲームとしては全く評価していない。

しかし、これは社会現象として驚くべきことであった。

このようなことがあり得るのか。

無論、十分あり得ることだった。

 

そもそもソーシャルゲームは「一般人」に本当に訴求するものなのか。

実際、かつてほど「一般人」という通年は通用しなくなっているが、売上の高いゲームを普通の人がやっているとは思えない。

では誰がやっているのか。

 

Fate/GOとポケモンGO

この2つが日本の「ツートップ」になった。

まさに日本を象徴するアイコン。それがFateポケモンなのだ。

Fate/GOは言うまでもなく美少女ゲームである。

つまり、1996年の「雫」、そして1997年の「ToHeart」などに代表される萌えキャラとしての美少女ゲームが、とうとうここまで成長したということであった。

 

いわゆる「オシャレさん」たちが使うiPhoneのアプリでNO.1を取るということ。

これは「勝利」なのだろうか。

 

2016年は「君の名は。」が興行収入1位(日本映画史上歴代2位)を記録した記念すべき年であった。これは美少女ゲームのOPを手がけていた新海誠監督が成し遂げた快挙であったが、それと同年、Fate/GOがiPhoneアプリで1位を記録した。

このことはつながっているのだろうか。

おそらくは、そうなのだ。

私はかつて「萌え=ブラックホール」理論を唱えたことがある。

それは萌えにあらゆるコンテンツが引きずり込まれていく現象をいち早く認め提唱した理論であった。

私は警鐘を鳴らしたつもりだったが、結果的に、現実は私が言うとおりの出来事が進行していくだけであった。

まさか新海誠が興行収入1位になるなどということを、たとえ前年であっても、万馬券であってもそれに1万円すら賭けようなどとは思わないだろう。

それが現実に起こったのだ。

 

つい最近では、JRの電車内に神姫Projectの広告が踊っていた。

どう見てもこんなものは、かつては秋葉原に行くことで漸く見れたような絵柄である。

 

我々は「勝利」したのだろうか?

私にとっては、一番面白かったのはKanon東映でやったときであり、京アニ版「AIR」がやっていた時だった。

 

ちなみに、衰退論の方々は全くこの事態を予想はできなかった。

それはFateiPhoneで1位を取るという事態だ。

全く衰退などしていなかったのだ。

衰退論は、そもそも根本から誤っていた。衰退原因というものは、「美少女ゲーム」の問題などではなかったのである。問題はそこにはなかった。美少女ゲームは確実にそのDNAを拡散していたのである。

労働の観念は常識で変化する

けものフレンズも終わり、新作アニメはどれも低調ということで、思いつき労働話を今日も書きます。

 

労働の観念が「何によって」変化するかと言えば、そこに何らかの法則があるわけではなく、人々の「常識」によって支えられているにすぎないのです。

ホワイトカラーといえば、今は土日休が当たり前ですが、昔はそうではありませんでした。

つまり、何が正しく、何が間違っているかは、その時の「常識」しか根拠がないのです。

であるならば、私が考えている

・一日最大7~8時間

・残業禁止

・有給20~30日

という、およそ日本ではあり得ない、しかし、ドイツやフランス、北欧では<常識>の水準も、日本では<非常識>なのです。

それは、物理法則や変えがたい伝統などというものではなく、単に「一年前もそうだったから」というにすぎません。

かつては女性がカチューシャをつけることがオシャレでしたが、今はそんなものをつけていれば変人扱いでしょう。

「常識」ということばがわかりにくければ「流行」といっても良いわけです。

今は過労死するほど働くことがブームですが、別にドイツやほかの先進国ではそんなことはないわけです。

そういう常識に縛られてそれを疑うことなく多くの人は暮らしているわけです。

しかし、かつてはクールビズなど考えもつかなかった日本人は、それを驚愕を持って受け入れ、今はそれが逆に常識となっています。

 

ですから、労働の問題は、「国の経済力」とか「世界情勢(かつてこの世界情勢というものを理解できた人はいないのですが)」などというものとは関係がなく、単に「誤った常識が蔓延している」ということに過ぎません。

また、この誤った常識は、なぜ誤っているかと言えば、多くの問題を生み出しているから、止めるべきであるのです。