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マイクロカーについて

電気自動車関連のトピックスの一つにマイクロカーなるものがある。小型の電気乗用車で、高速には乗れないような乗り物のことである。ある論調には、電気自動車時代はまだこないので、ガソリン車を出すことは間違っていないが、このマイクロカーがこれからは流行るから、これは普通のセダンなどの大きさの電気自動車より、こちらを出す方がよっぽど有意義で、売れるということのようだ。

しかし、この議論を聞いていると不思議に思うことがある。そのマイクロカーとやらが売れるような状況になる前に、まず普通の電気自動車が売れる状況が作られるのではないか? ということだ。そうであるなら、その時、そのメーカーは何を売っているのか? ということである。

なるほど電気自動車のマイクロカーが売れるというのは結構なことかもしれない。しかし、それならば、なぜ普通の電気自動車を売らないのか? そもそも、どんな条件でマイクロカーが利用されることを想定しているのか? マイクロカーが利用されるならば、当然、それは自宅に停めるということである。それならば、自宅にはチャージャーが設置されている社会を想定していることになる。しかし、今はそうはなっていない。そうはなっていない社会に、マイクロカーを投入する意味はなんだろうか? そして、自宅にチャージャーが設置されている社会であるならば、まずマイクロカーではなく、普通の電気自動車が売れるのではないか? ならば、なぜガソリン車が売れる想定なのか?

ここに大きな矛盾がある。電気自動車は流行らない。しかし、電気のマイクロカーは出す。ここには相矛盾する前提がぶつかりあっている。電気自動車が流行らない、というなら、それはそれでいい。しかし、それならばマイクロカーなど出す必要はない。だから、電気自動車時代が来るということは想定されているようだ。しかし、それならば、なぜ普通の電気自動車を出さないのか。わざわざマイクロカーにする必要はないだろう。それとも、もう普通の自動車は諦めて、マイクロカー一本に絞るのだろうか。それはそれで潔い話であるが。

テレビ視聴のスタイルは変わるか

全て個人の感想です。

 

映像視聴に関して、多くの選択肢が現れ始めています。特に動画配信は、

ディズニーの「Disney+」(ディズニー動画が見放題の「Disney+」が本日からサービス開始--月額700円で - CNET Japan)、ワーナーブラザースの「HBO Max」(新たな動画配信サービス「HBO Max」、5月27日に米国で開始へ - CNET Japan)という二大巨頭も動画配信事業に本格的に乗り出しました。

日本でも誰もが知るようになったネットフリックスをはじめ、色々な動画配信サービスがあります。数年前は馬鹿にされていた(作品がつまらないとネットでは酷評されていた。作品が賞を受賞したことが日本で知られるようになると、そういう声はなくなっていった。アニメはまだ現在酷評されている最中だが、数年後にはどうなっていることか)これらの動画配信サービスも、もはや頭ごなしに言う人はもういません。

 

当ブログではしつこくテレビに関するエントリを挙げてきたが、その中でも今年はさらに大きく事態が動きそうな予感がしています。それは今上に挙げた二大巨頭の動きでもあるし、本格的にYouTuberがテレビでも当たり前のように認知されてきているという点です。2年前ですらYouTuberは珍奇な存在としてテレビに面白おかしく取り上げられる程度だったが、今年に入って芸能人の参入が相次ぎ、テレビもそれを認めざるを得ない状態になってしまいました。(急成長するYouTubeと、テレビについては長くなるのでカット)

 

話がずれていってるが、なぜかといえばそれほど多くのトピックがあり、大きな地殻変動が起こっているからで、それに対する様々な反応をいちいち取り上げていたらエントリの収拾がつかないほどなのです。まずネットが何か動きが起こると、まずそれに対する否定的な意見がテレビ始めネット上でも起こります。そして、そのネット側の活動がずっと続くと、やがて今まで否定していた人達が手のひらを反す。この動きが方々で起こり、加速しています。

 

テレビがいかに駄目になったかを語るのは簡単ですが、それを書くと正直何千文字にもなっていますので、ここではカットしますが、ではこのエントリではどこに集中するかというと、今まではテレビの技術的な面ばかり追っていましたが、もっと視聴者に寄り添った視点を今回は見てみようと思います。

それが、「視聴スタイル」です。現在、テレビは地上波を受信してみる機械ですが、そこにネットの動画配信が入り込んでいるのが現在。テレビは今「TVチューナー vs. インターネット回線」の戦いを繰り広げているのです。当然、この戦いはどちらが勝つということではなく、併存していくという考え方もあります。それが一番穏当な未来予測ですし、今現在そうなりつつあるというのが現状です。ここまでなら誰も反対しないでしょう。

しかし、そうでしょうか。テレビは、いや地上波は、そのように動画配信と共存していけるのでしょうか。テレビの視聴スタイルに関して、私は、今後はテレビは電車の中のモニターのような存在になっていくと考えています。電車に乗っていれば、誰もが見るあの車内モニターです。

 

では、ニュースはどうなるのか。

映像に関してはそれぞれの需要があります。「ニュース」「バラエティ」(?)「ドラマ」「ドキュメンタリー」といったところです。

ニュースなどは、YouTubeで事足ります。これからは報道局がYouTubeなどにニュースをあげていけばいいのです。それがYouTubeなのかは分かりませんが、そのようになんらかのニュース映像のプラットフォームができて、そこに各社ニュース映像を作るところが、映像を作って配信すればいいのです。プラットフォームではランキングなのか、なんなのかは分かりませんが、そこに載るようにがんばる。また、独自のニュース社は専用の配信サービスを持っていてもいいでしょう。

バラエティなども、配信サービスでOKで、ドラマやドキュメンタリーも、今までは知らずに流れていったものが、ちゃんとストックされるので見逃すこともなくなります。

 

このようになると、夕方に二時間も三時間もやっているニュースを見る必要はなくなります。

プラットフォームに上がっているものをざっとチェックすればそれで済みます。そうるなと、またメディアの形も変わるので、議論が必要でしょうが……。

 

今回はこんなところで。

電気自動車はエンジン車とは違う

世の一般の人々は、電気自動車を単にエンジン車と同じ感覚で買い替えられる、と考えているようです。

これは、電気自動車に詳しい人にも共通のことで、特にEV社会化に関する話題においては、単に「エンジン車をEVに置き換えるだけ」という理屈で考えている人が見受けられます。

 

しかし、実はそう単純ではない。

特にHV、PHVという、「なんだか電気自動車っぽそう」感のある自動車が一般化した現在において、その「エンジン車とEV」の違いというものが見えにくくなっている。そのことが原因で「エンジン車とEVの根本の違い」というものをいい意味でも悪い意味でも意識しなくなっているということが言えます。

ではその根本の違いとは何かというと、「ガソリンタンクがない」ということです。

HVもPHVも、基本はガソリンです。車を動かす原動力はガソリンであり、ガソリンスタンドに行ってガソリンを入れる必要があります。それは逆に言えば、「ガソリンスタンドさえあればなんとかなる」ということを指します。

しかし、EVはガソリンが「入りません」。

今まで使ってた原動力をガソリンから電気に切り替える。これこそがエンジン車とEVの根本の違いです。

 

「なるほど。ガソリンから電気ね。じゃあ「電気スタンド」があればいいのか」

違います。

それが根本から間違っている発想なのです。

それは「エンジン車ありき」の発想なのです。「エンジン車」というものの「改良版」として電気自動車を考えると、そのようにガソリンスタンドで今度は電気を<給油>するという発想になりますが、実はそれは発想としては全く違います。

電気自動車をエンジン車と同じ土俵、同じ土台で考える必要は全くないのです。

 

つまり、EVの使い方、EVの「使え方」というのは、エンジン車とは異なる。どう異なるかと言えば、電気はどこでも供給できるということです。だからそれは家庭でもできる。

その発想が根本から違う。

 

なので、EV社会化するために何が必要かというと、「家庭での充電環境の整備」なのです。

だから、EVを買おう、となった時、何を一番最初に考えなくちゃいけないかというと、家庭での充電器(チャージャー)の設置なのです。なぜなら、(今の)普通の家庭にはEV用の充電器が設置されていないからです。

なぜか。それは「EVはガソリンスタンドが使えないから」なのです。これは致命的です。ガソリンがなければガソリン車が動かないのと同様に、電気がなければEVはただの鉄の塊です。その生命線ともいうべき電気を供給する設備を「持たない」ということは、EVの導入は不可能なわけです。

 

EV肯定論者の中にも「チャージャースタンドがあれば問題ない」という人はいます。しかし、私は懐疑的です。

いくらチャージャーを整備しても、それですべてのEV車をまかなえるとは思えません。

つまり、チャージャースタンドは「補助」であり、家庭充電こそが「メイン」なのです。この「チャージャースタンドメイン論」というのは、上に書いた「ガススタからの延長発想」と同じものだと思います。

家庭充電がない場合は、チャージャースタンドが必須ですが、逆に言えば家庭充電が普及すれば、チャージャースタンドの必要性は下がるわけです。(ゼロではない)

 

こう書いてくると「なんかEVってめんどいな」と感じるかもしれません。つまり、エンジン車からそのままEVへ、というほどハードルがゼロだ、というわけではありません。

EV肯定論者の中には、この面倒くささを嫌って、チャージャースタンドだけでEV社会化はいける、というような考えを持つ人もいますが、それは余りにも前のめりと言えるでしょう。EVを肯定したい気持ちがあるあまり、現実的な消費者の使い勝手を無視しているように思えます。

 

 

つまり、EV導入の紹介をする際に、一番重要なポイントは「家庭充電が必要ですよ」ということを周知することだと思います。家庭充電さえあれば、EVにまつわる「なんか使いにくそう感」が減る。不安感が減ると思います。

EVの普及に必要なのは、クルマもそうですが、もう一つはそのライフスタイルです。今まではガススタで給油していたのが、家庭充電になる。ドライバーにとって一番の変化はここなのです。ガソリンか電気かでクルマ生活は何も変わりませんが、ガススタに行くか、家庭で充電するかでは、クルマ生活が全く違うわけですから、この点を強調することが大事だと思います。

産業の未来を目指す

EVの社会化は、スマホほど簡単ではありません。

だからこそ、社会的にそれを目指す必要があります。

そのためには、「未来社会」としてそれを掲げることが重要ではないかと思います。またそれは掛け声だけではなく、実際に実現すること。駐車場にチャージャーを導入すること。その構想なしには、強力な普及の推進は難しいでしょう。

しかし、そのような動きは現在極めて鈍い、というかないといっていいでしょう。

だが、この先は分からない。

じわじわとEV社会化へと進んでいる国があるかもしれません。そのようにEV社会化へと舵を切った国ではEVの普及が進むでしょう。

全個体電池はSSDに似ている

かつて(2018年頃)、電気自動車の普及論に反対する人々の中で熱く語られていたのが「全個体電池を搭載しない電気自動車は普及しない」という論がありました。

当時から様々な例を挙げて反論されていたこの論ですが、この度ふと思ったことで追加したいことが出てきました。

 

それが、タイトルにもなっていることです。「全個体電池を搭載しない電気自動車は普及しない論」について感じるイメージが「SSDでない限りPCは普及しない」というものに近い、ということです。

これをどういう言葉で言えばいいのかは分からないのですが、普及否定論者の言うことは、つまるところ「充電時間が長すぎる」というものでした。数十分で相当長く走れると(現時点でも)思えるのですが、否定論者はそれでも足りないというわけなのです。

 

しかし、そもそも電気自動車はガソリンスタンドで給油するエンジン車の使い方とは根本的に異なるという事情があるわけですが、その点がまだ理解されていなかった2018年当時、そのようなエンジン車と同じ理屈で電気自動車を否定する論者が後を絶たなかったということがありました。この点は、今でも完全に否定されたわけではなく、今年の6月になっても「ガススタに充電ステーションを」というニュースが飛び交っているという現実があり、そのニュースの論調は「石油会社もEVのことをこんな風に考えてるんですよ!」みたいな感じなんですが、EV派からすれば「ガススタで充電???」という感じでどうも疑問符が付くんですよね。

まあそれはさておき、全個体電池というものをなぜEV派がEVの普及に必要条件と考えていないか、ということですが、これは一言で言えば充電は家でやるから、充電速度はそれほど必要としないということなんですね。

 

全個体電池というものが「どういうもの」になるのかは私にはよく分かっていないのだが、リチウム電気自動車普及否定論者によれば、全個体電池は「航続距離が延びる」「充電時間が短い」ということのようだ。

確かに航続距離が延びれば日本縦断する際などには心強いかもしれない。また遠出した際にも「充電いらず」で一週間走り回れるだろう。しかし、それは「充電インフラが存在しない」という前提だ。それはたとえば都内で暮らしながら「スマホは一週間は充電しない前提じゃないと使えない」と言っているようなものではないだろうか。普通に暮らしていればコンセントはあるのでスマホは充電できるので、そんな理由でスマホの利用を諦める人はいない。

もちろん、一週間充電要らずほどのバッテリーを積めればいいが、現実はそうではない。しかし、別にそれで人はスマホを使わない(普及しない)かと言えばそんなことはないのが現実社会である。現実と理想は違う。

勘違いして欲しくないのは、私は電気自動車は普及するとは言っていない(未来のことなど誰にも分からない)。

 

であるなら、EV普及の枷は何かということですが、これは裏を返せばお分かりの通り「家庭充電インフラ」なんですよね。これができないとEVは普及しないだろう、と私は思います。この条件を抜くのであれば、確かに全個体電池(全容は不明)の様なオーバーテクノロジー(は言い過ぎか?)が必要になるのは確かです。しかし、家庭充電という今でもできる技術を使えば、全個体電池は必要ない、というかなくても普及できるのではないか、と思うわけです。

 

また、仮に全個体電池というものができたとして、それはどのようになるのでしょうか。

この考え方があってるのかわかりませんが、電池容量が非常に大きい電池があったとして、それを充電する充電スポットはどれぐらい普及するのか。

そういう点を見ても、「大容量電池で充電スポットで充電」という使い方が、果たしてEVの社会的な使い方として正しいのかかなり疑問です。

そういう全個体電池+ものすごい高kwの充電スポットという二つの条件を揃える必要があるインフラと、リチウムと家庭充電という条件であれば、後者の方がいいのではないか、と私は思うわけです。

 

家庭充電なしでEV社会にするためには、高kwの充電スポットというのは欠かせませんが、これを全国に配置するとなると、相当なコストがかかるように思います。また全個体電池というものも、一体いくらになるのか分かりません。大容量といいますが、それはどれほどのローコストなのか。リチウム以下のコストならそれは全然いいのですが。

 

ということでまとめると、

・リチウムでEVを普及させるには家庭充電こそが肝と思う

ということです。このことを仮定して話を進めるなら、EV社会を実現するためには家庭充電というものを普及させる必要がある、ということにもなる、というのが私の考えです。

昔は家には電気がなかったわけです。

そして、家に電気が通るようになりました。

次は、自動車にも電気を! というわけです。

必要になるのは、駐車場に充電器(チャージャー)が配備されるということです。

さて、そんなことができるのでしょうか。

しかし、やらなければEVの普及はないのではないか、と私は思います。