インターネットで何ができる?

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長門は俺の嫁、と言っていた人たち

は今どうなってんの?

という記事が上がっていた。

恐らく最も当てはまる答えは

アイマスでガチャ回してるよ」

というものだろう。

 

もちろん、艦これ勢もいるし、Fate勢もいるだろう。しかし、「長門俺の嫁」というぐらいキャラ萌え属性が強いことを見れば、最もキャラ萌えを押しているのがアイマスであり、難しい艦の知識などいらずにただガチャ回してれば楽しめるアイマスはハードルが低い。

 

そもそも、多分、アイマス勢は元々年齢が高かった。

それはニコ動のニコマスからの類推だが、おっさんホイホイとかが多かったからである。大体アイマスの始動期といえば2000年代後半だが、この当時すでに20代後半の人たちが多かったのではないか。さらに言えば、この少し前がハルヒブームだったと思う。

そうなると、20代も後半に差し掛かる頃、親からの「あんた結婚どうすんの?」という圧力から逃れるための無意識の抵抗としての発露がネット上に生まれた「俺の嫁長門だから!もう結婚の話はするなよ!」というものだったのではないか、という考えがいきなり浮かんだ。

そもそも、長門俺の嫁、という言葉は私には全く分からない。なぜ嫁なのか。彼女とかじゃないのか、と。

それは、その世代にとっては嫁というものがリアルな問題として差し迫っていたのではないか。だからこその嫁というワードチョイスだった、とするならば納得が行く。

 

そして彼らがどうなったのかと言えば、結婚した人もいれば、独身貴族となってアイマスガチャのいいお客さんになっている人もいるのではないか。などとつらつらと考えてみる。

サブカル・アニメ・少女漫画

タイトルに困ったら三題噺にするという怠惰。

 

増補サブカルチャー神話解体を(再)読む。まあ本棚発掘。

 「少女マンガ分析の三元図式」というものがあって「里中領域」と「岩館領域」と「萩尾領域」というのがあって、こういわれて、今の読者がどれだけ分かるのかと思いますが、こういう「図式化するぞ!」という欲求が現れているのが面白いですよね。

 

なんともIQの高い時代だった思いますね。

今、これだけのテキストが書かれることがあるでしょうか。

YouTubeのコメント欄は「すごwwww」「それなwwwww」「わかるwwww」

という、ここはVIPか? という状態にあり、マンガブログの大半は「この広告は一ヶ月更新のない云々(でんでん)」という有様。

あとは、よくて話のあらすじが書いてあったりする程度で、他のtwitterでは「(キャラ名)かわいい」とかそういうもの。あとは卑小な「誰が良い奴か議論」という毎度繰り返されるオチのないコミュニケーション。

恐らく90年代のこうした状況こそが、エヴァンゲリオンを呼び、謎本エヴァサイトブームを呼んだのだろうとは思いますね。

やっぱりこれだけの歴史を整理して、おまけにモデルまで提示しようという勇気を持つことは大変なものがありますから。

 

このように整理されてみると、我々(男のオタクども)が呼んでいた「日常系」なるアニメ群も、すでに少女マンガに先取られていたことがすぐに分かります。それは言うまでもなく少女漫画を盗み見るということと同じであり、それまであったラブコメの「男→女」という図式から、男が消去されたものと、少女漫画の「私小説中間小説(岩館)」のブレンドということが分かる。

それはアニメらき☆すたでのオヤジがOPで電柱から女子高生を覗き見ている様に象徴的に現れている。そしてそこからのけいおん、そして完全に少女漫画として覚醒するたまこ劇場版へとつらなる一連の少女漫画のDNAが見出される。

これは「美少女」が、常に少女文化から少女を略奪してくる文化だということを考えれば、少女文化がそれに先行するのは当然だと言えよう。

「日常系」とは要は「美少女の日常」ということであるから、その表現が遅れてくるのは当然である。ただ、「美少女」は「少女」ではないのであって、そこに男側としてのねじれ、歪み、改ざん、捏造が生まれるのである。

ササキバラゴウ的に言えば「君のことを僕は理解してあげるよ」という言明が不可能になり、男の消滅が起こった。

それはこの本で言えば、柴門ふみ的な「無害な共同性」すら維持不可能になったという相手とのディスコミュニケーションがある。今も「無害な共同性もの」はたくさんある。一番は「冴えカノ」だろう(俺ガイルはむしろ無害な共同性の暴露だったが、それは少女漫画と同じように暗くなっていった。)。最近で言えば「エロマンガ先生」だろうし、当然俺妹もそうだ。しかし気づくのは俺妹もエロマンガ先生もどちらも兄(義兄)として関係性を偶有性から更に下げるための工夫が凝らされている。もはや男作品では、そのようにかなり注意深く設計しないと、偶有性の上昇に対処できないことが分かっている。このことに少女漫画の方がなぜ敏感だったのかと言えば、少女は「選ばれる側」であり、少年は「選ぶ側」という非対称性があることが本書には書かれており(まあ俺は選ぶ側になんてなったことは一度もないですけどね。ハハハ)、やはりその非対称性はいまだに男性向けコンテンツでは隠蔽されたままである。どうでもいいが、少年向けラブコメの創始とされる『翔んだカップル』(78)にすでに「風呂場で出会ってドッキリ」があり、ラノベアニメの着替えドッキリはもはや伝統芸能の領域だということが分かる。

この「無害な共同性」は、要は柴門ふみでは「高校時代の仲良しグループ」が、社会人になっても存続し、その中で恋愛が描かれることで関係性の偶有性を回避する回路があるということである。

これは俺妹でいえば「オタクっこ集まれ」の会であり、オタクであることが黒猫とバジーナの共通点であった。妹の桐乃は言うまでもない。

それがエロマンガ先生では、今度はラノベ作家ということで周りに人が集まるという共同性が描かれる。無論、人がつながるには何らかの共通点がなければ成り立たないのが当たり前だが、少女漫画では、ある時、そういう物語上のお約束を破り、より写実的な方向に進み、進みすぎたがために破綻したという経緯があるのである。それは本書によれば柳沢みきおもそうだという。

しかし、今書いたことは本書によれば「新人類」の部類なのだ。

ではオタクはどうするのかといえば、オタクは「異世界」を作ることで、関係性の偶有性から逃避するのだという。

つまり、近年の「異世界ものブーム」は完全に予言されていたことであり、逆に言えばオタクにとって正しい逃避方法なのだと言うことが出来るだろう。

 

では、この本に書かれているモデルはどこまで有効なのだろうか?

この本にはサブカル(漫画やアニメ)四象限があり、まあそれぞれあるのだが、その中の枠組みに収まっていないと感じるのはセカイ系だと思う。

では、「最近のラノベアニメ」によくある、「学園魔法バトルもの」は何かと言えば「陳腐な終末世界」に該当するだろう(エロマンガ先生ラノベだが、そんなことはどうでもいい。「最近のラノベ」アニメといえばつまり俺TUEEEのことなのである。それはそういう定義なのであって、最近とは何かとか、他にもこんなのがあるとかそんな下らねえことは犬にでも食わせろ)。挙げられてる作品は、マクロスパトレイバーアップルシード

まあこれはSFばかりだが、それをファンタジーに適用したのがラノベだと言えるだろう。それはRPG的であったり、巨大学園であったり、ビーム兵器と魔法が共存していて、教練学校に入った主人公が落ちこぼれと言われつつ実は超強いというような形だ。

そこで描かれるのは基本的に「日常」である。四象限では、「陳腐な終末世界」は「日常性(大世界)」側にある(もう一つの小世界は「無害な共同性」(アラレ・うる星))。つまり描かれているのは「世界の終わり」だが、それは日常化している。確かにラノベでいかに「究極の悪」や「世界を終わりにする魔法石」が語られようとも、もはや誰もそれをサブライム(崇高)だとは思わないだろう。

それは、完全にパロディであり、ある種「バスケの部活」(日常性)と変わらない。で、バスケの部活で「このシュートを決めてあのコに俺のいいとこ見せてやろっと」程度の緊張感しか持っていないのは明らかだろう。

だから、「魔法学園」か「異世界」かなどというのは、なんの意味もない議論だということが分かるだろう。

そういうふうなことが分かっていれば、そういう議論に巻き込まれる心配はなくなるので、読者の方でお悩みの方は、これからはそんな話は「どっちも同じじゃん」で済ませられるということである。

 

この手の本の楽しみ方はやはり後年から見てどうなのかという点であって、93年に単行本で出た本の話が、どれほど生きているのかというのを見つけるという好事家的な楽しみですね。そんな奴ぁいねえかもしれないが。

たとえばこれを用いて涼宮ハルヒの新しさを述べたり、まどか☆マギカの凡庸さを述べたりできるわけです。けいおんのレシピも見えたりするわけですね。

この本の面白さは、そういったオタク系だけではなくて、新人類系という、今あるのかしらないけど、そういう存在、歴史的な存在に光が当たっていることですね。

多分、この本のクラスター分析(?)でいう、新人類の人達は、今はお笑いとかにコミットしてるのかな? 少し前には(何度目かの)アイドル論とかですかね。わからないけど、やっぱりそういう人達はいると思うんですよね。多分社会学系に多いと思うのですが。そういう話がセットになっているのが面白いですよね。今はオタク系といえばオタク系。アイドル系といえばアイドル系と別れてしまってますからね。

ラブライバーアイマスとの差異とかね。あれは前者が新人類で、後者がオタクだったのではないかというアレなんですが、新人類もラブライバーにまでなったと言ったらそれは反論されそうですが。それともラガード?

しかし、こういう分析がどことなくうそ寒いというのが今なんですよね。それは類型化の胡散臭さがあるからで、その点不透明なわけですが、流動的なだけで、また誰かが類型化してくれる時期がいつか来るのだろうなと思います。

ジャンプはつまらなくなったのか?

「少年ジャンプ」はDBが終わった時点で終わっている。そして、スポ根を終わらせたスラムダンク
それ以降は「少年」はいない。どういうことか。
DBが始めたのは「マンガのゲーム化」なのであって、それはDr.スランプで行き着いたジャンプ型ギャグの袋小路だった。むしろDBはその始まりであった。では「少年」の最後は何か。北斗の拳ではないか、と思うが、どうだろうか。

おそらく一番初めに気づいたのはジョジョだろう。すでに「戦い」が肉体を離れ、「ゲーム化」していることに。作中でギャンブルやTVゲームを使った戦いが描かれ、筋肉もりもりの大男たちが必死になってテレビにかぶりつくという異様な光景がジョジョ三部で描かれた。まるでケンシロウがTVゲームに熱中するかのような、異様。

それまでは「少年たちの戦い」といえば、あしたのジョーの肉体や聖闘士星矢のような魔法的パワーが描き出すものだった。
それには必ず「腕っ節」が必要とされた(運命性というのは楽して手に入れた努力の結果である)。しかし、ジョジョは、「能力」もあるが「頭脳」が肝心であり、そうであるなら「少年」である必然性は薄くなる。少女でもいいのだ。

DBはどうしても少年を目指した。それはアラレによって先取られた「少年の終焉」を取り戻す戦いだった。
そこで鳥山は強さを「戦闘力」として数値化した。しかし、これはゲーム化の隘路を回避するどころか、余計に泥沼に深くはまり込むことになるのだった。

それまではあいまいにされていた「強さ」を「数値化」することで測定可能にしてしまった。訪れるのはインフレという「後出しじゃんけん」である。
それはインフレが「根拠がない」ことと同じように、実は強さにも根拠がないことを暴露してしまった。それは単に「設定」、ゲームの設定でしかない。

よく、「ジョジョはインフレしないからすごい」と言われる。
しかし、こう言ってはなんだが、当たり前なのである。彼らは「強い」のではなく「賢い」だけなのだから。賢さでインフレはいくらでも操作できる。どんなに「気」が強い者でも、人間なら、毒で一発で死ぬのだから、そういうようにして、相手を「インフレの強さ」で倒す必要は全くなくなるのである。それは厳密に決められた「ルール」の上で戦うのではなく、いわば「反則」に近い行為だ。ある種、ジョジョの戦いはルール無用のぶつかりあいであるが、それを受け入れられるようにデザインする「ゲームデザインのセンス」が光る。
そしてトリッシュの存在が示すように、賢さなら「少年」である意義、アイデンティティはもはや失効しているのである。
そこには「努力」によって得られるはずの「勝利」はなく、「賢さ」、もしくは「ひらめき」というものが大手を振って歩く光景しかなかった。
それは「肉体」が制する帝国ではなく、「おしゃべり」で「誘導」したり、「はったり」したりする、どこかずる賢い男たちの姿なのであった。


富樫はそれに気づいていた。だから意図的に幼い主人公のゴンを登場させ、普通ならRPGなどで「街の子供」ぐらいのキャラに死闘を演じさせる。そうでないと物語として「持たない」ことに富樫は気づいていた。

それはジャンプが描く物語がすでに「ゲーム」だということに気づいていたから。「小学生が中学生にゲーセンで格ゲーの対戦を挑む」程度の「緊張感」しか生み出せないことに気づいていたから。
もし主人公を青年に(たとえば幽助ぐらい)描いた場合、緊張感は失われるだろう。もちろん、仲間には青年や大人が混じっているが、彼らに緊張感を持たせるためにはヒソカといったあからさまに狂ったキャラやキメラ=アントという化物キャラを創っていく必要に迫られたが。途中にはGIという完全にゲーム世界にしてしまったが、旅団編のどこかサムい展開(私は好きだが)から挽回するには、ゲーム世界を構築せねば保たなかったと思われる。

だからハンターハンターは完全な「ファンタジー世界」である。
ジョジョは現実だが。その点で、NARUTOのファンタジー性に触れない人が多いのは不思議である。NARUTOは「和風ファンタジーRPG」であり、言ってしまえばガンガン風である。

岸本は「ハリーポッターみたいな」作品を、NARUTOの前にボツネタとして作っていた。これだけでも岸本のファンタジー性はよく分かる。
NARUTOはゲーム化した少年漫画をある種ベタなファンタジーバトル漫画に戻した点が大きい。(NARUTOとハリポタの共通点は非常に多い。これはいわば「定番」であるが、DBやワンピよりも共通点は多い。
1.親が強大な敵に葬られている(ハ:ヴォルデモート N:九尾)
2.その痕跡がある。それがパワーの源泉でもある(ハ:額の傷 N:封印)
3.それが理由で共同体から忌み嫌われている(ハ:学校でいじめられる N:学校で疎外されている)
4.その他のキャラデザインの方向性の親近性(ライバル(ハ:マルフォイ N:サスケ)、指導者(ハ:ダンブルドア N:火影/カカシ)、外部者(ハ:ハグリット N:イルカ)、ヒロイン(ハ:ハーマイオニー N:サクラ)、三人グループのデザイン(ハ:ハリー、ロン、ハーマイオニー N:サスケ、ナルト、サクラ)))

次にどういう漫画が流行るかはジャンプ編集部は多分分かっている。
次も、小学生低学年ぐらいの子供が、ドンパチやるファンタジー漫画だというのはすでに分かっている。だからヒロアカを猛プッシュしたが、結果はご存知のとおりである。

多分、次は王道西洋ファンタジーなんじゃないかと思ってるんだが、なかなか出てこない。もしかしたらSF系かもしれないが。
ネバーランドはもしかしたらその布石かもしれない。あれをSFというのは変だが、ああいう難解系みたいな要素も混ぜてくるかもしれない。

しかしゲームとは何か。
昔(はるか昔のことじゃ)差異化のゲームとかそういう言葉が流行ったことがあったのじゃ。
なぜ遊戯王に触れないのか? 遊戯王は現実でゲームになってるし、あの手はもうコロコロに行ってしまった。

ワンピースはどうなのか。ワンピースは義賊として描かれる。しかし、その物語の枠組みは遥かに曖昧模糊としている。世界観はほとんどはっきりせず、どこに何があるのかも分かりにくい。その曖昧さを埋め合わせるかのように画面は稠密である。
ワンピースには賞金額という指標が存在する。ではDBなのか。
ワンピースは西遊記である。経典を手に入れるために三蔵法師がお供のものと旅する西遊記と構造は同じである。”モンキー”・D・ルフィという”孫悟空”の存在がいる。ではやはりDBなのか。
だが、単純にDBではない。しかし、その掛け合わせであり、そのバランス感覚は絶妙である。ゲーム的なデザインも、オタク(ジョジョ・HxH)に陥らないギリギリの線を狙っている。
スタイルは暴れん坊将軍であり、町中をうろつき、悪いやつに面と向かって宣告、仲間を伴って倒しまくる。
これが少年の夢なのか。
それはシンプルに作られた人情活劇であり、時代劇である。ゲーム的時代劇である。

ジャンプがつまるかつまらないかは人それぞれだ。
当たり前だが、文化は時代の影響を受ける。
肉体の力が信じられていた時代は終わった。
時代劇には、もちろん、それは残っている。だから、そういう方向に行っている漫画雑誌ももちろんある。
ジャンプは何を目指すのか。そういうポイントが求められている。だが、それは愚直な創作の中でしか生まれない。


(なぜ私が「能力バトル」という用語を使わなかったのか。もちろん、それは時宜にかなっていれば使ってもよいのだが、能力バトルの中にはセーラームーンなども含まれる(無論ネットの話題の時は大抵無視されているが)はずであるが、それはともかく、ジャンプのバトルを追う時は、それは根源的に「マチズモ」であり、「男性アイデンティティ」の問題だからだ。だが、フェミニズム用語はあえて使わずに書く必要があった。)

 

(どうでもいいが、ヤングジャンプヤングマガジンは、あんなに乳首を露出するんだね。この前初めて知りました。
そして、その乳首の絵が、完全に「萌え絵」(萌えエロゲー)なのにも驚きましたね。なんかかんなぎれいさんの絵みたいな。いや単にエロマンガ雑誌やToLoveるを参考にしてるのかもしれませんが、エロマンガ雑誌がエロゲ由来の萌えですからね……。
完全にオタク向けの絵なんですよね。
大丈夫かなあ、なんていらぬ心配をしたり。それにしても、なんであんなに乳首出すのかなあ……。アレ完全にノルマですよね……。いい加減エロゲー文化を使うの止めて欲しいのですが、まあそれは定められたことなのでしょうか。それほどエロゲというのは影響力が「ありすぎた」のでしょう。)

各国アニメーターの年収覚書

アニメーターの年収

アメリカ:

平均650万円 / ピクサー(3D)の平均年収:1240万円($1=¥111換算)

フランス:

およそ336~600万円 (10時~18時勤務)

日本:

平均332万円 / ジブリの募集:240万円(月収20万円)

 

ソース

アメリカ及び日本:

アニメーターの平均年収が上がらない原因・改善策|海外との比較|#mayonez [マヨネーズ]

ピクサー

ディズニーピクサーの「モンスターズユニバーシティ」でアートディレクターを務めた日本人ってどんな人?

フランス:

日本過酷すぎぃ! フランスのクリエイターが語る高待遇な海外アニメ業界 - ねとらぼ

ジブリ

ジブリの新人スタッフ、「給料安すぎる」と海外で指摘相次ぐ 日本のアニメーターなら高待遇?

げんしけん 時代の勝者

なんとなく、読んでいて思ったこと。

 

本エントリ参考にどうぞ↓

 

高坂は、エロゲ会社のプログラマになって、確か一期の最後にグロッキーになってたと思う。

それで、読んでいた当時は「高坂は上手く行かなかった」という表現だったと思う。

しかし、今読むと、むしろ高坂は現代の覇者に最も近い位置にいることが分かる。

つまり、高坂がこれから、新しく会社を立ち上げるなり、そのメンバーの一角になり、その会社がげんしけん世界のFate/GOを作れば、一気に高坂の年収は1000万円を優に越えるものになることがはっきりと分かる。

 

げんしけん一期終了時点では、最も「勝ち組」だったのは、言うまでもなく笹原であった。

オタクがマンガの編集者(編プロ)になれるなど、まさに男性版シンデレラストーリー(?)と言っていい。しかもカノジョはオタク系も平気な腐女子マンガ家。

そういう幻想でしかないが、ある種オタクの「夢」をきっちりと描いていたのがげんしけんだった。始めの頃は「五年生」のような鬱屈した話かと思いきや、ちゃんとエンタメとして丁寧に作られていたのがげんしけんだった。帰国子女の爆乳コスプレイヤが出てきた時点で完全な夢ですが。

唯一、負け組を体現していたのが斑目だったわけですが、最後はオタクのブロンド美女(?)をゲットすることで埋め合わせを受けました。

 

一方で、作中は非常に恩恵を受けていたのが高坂だったが、なぜかエロゲ会社のプログラマという職につき、廃人と化す。

だが、結局は上昇することが、現実世界では起こっていた。

 

それが、スマホゲーの大ヒット」だった。

 

もはやスマホゲーは日本の中でも高利益率産業として認知され、一部の会社が野球球団のスポンサになるほどの勢いをつけた。

そしてソニーが名指しで好調を指摘するなど、「オタク産業」はまさに日本の中での最大規模を誇るものになった。

 

今の子どもたちからすると、げんしけんは理解が出来ないかもしれない。

なぜこの登場人物は、妙に恥ずかしがっているのか? と。

むしろ、オタクであることは、この国においては、最も「稼ぎ頭」であることを示すことになっているからである。

テレビが「イロモノ」として取り上げていたオタク産業

口の端を上げて「今オタク産業が話題です(冷笑)」と言っていたメディアは、むしろオタク産業に完全に奪われたことを自覚したのが、「君の名は。」のヒットだった。そして、もう2つ、「シン・ゴジラ」と「この世界の片隅に」だ。

それまでは、テレビで注目されていた「普通のもの」が完全に衰退し、代わって経済的なリーダになったのはオタク産業だった。

月9や「タレント」が衰退するのを尻目に、映画産業でもオタク系が席捲し、また、ゲーム産業が、産業の中で非常な地位を得るようになる。しかも、国内でそれを占めるのはほとんどがオタク系ゲームばかりだ。

 

げんしけんとはなんだったのか。

それは、後にこの国の「中心」となる人々の記録だった。

もはやオタクは日陰者ではない。

むしろ、最も重要な産業を牽引する人々なのである。

 

美少女・アイドル・性

美少女性とはなんだろうか。

言うまでもなく妄想である。

しかし、これが単に一部の嗜好の作品としてあるならまだしも、現実の女性にあてはめたり、バッシングしたりするようになると、それは問題である。

 

そうでなくても問題だという考えはあるだろうが、物事には深さがあり、順序がある。

少なくとも、現在のある岸から一歩先に進んだ時点のことを、書くというのがこのコンセプトだ。焦りすぎてはいけない。

 

アイドルにあるのは何か。

女性の性欲の抑圧である。

元々、女性に性欲があることは分かっている。だから、抑圧するのである。抑圧するから、その抑圧が破られた時、抑圧を与えていた側は憤激する。

しかし、この抑圧は全くのところ矛盾している。

そもそもが、アイドルというのは、女性の性欲を搾取する形態である。

元々女性に性欲(性愛)がなければ、女性はアイドルにはなれない。

それは、客を性愛するという行為を、要求するからである。それは歌にも「あなただけを愛する」というような、「愛」の要求がある。つまり、アイドルは人間である。

一方で、そうした形で、人間的な女性としてある存在が、ほかならぬ男から求愛されたならどうするか。それは相手に答えるのが当たり前である。

しかし、アイドルビジネスではそれはいけないという。それが抑圧である。

 

こんな話を説明しなければならないことに知的な人は驚くかもしれないが、事実はそうなのである。

未だに「女性には性欲がない」と考えているような男もいるし、男と付き合う女性は「ふしだらだからそうしている」などと考えるいい年した若者(?)もいるのだ。

女性は単に男から求愛されたから答えているに過ぎない。しかし、それを見過ごして「熱愛報道」などは、女性がふしだらに遊んでいるとか、騙されているというイメージを与えることに力を集中する。

この社会様態が浅薄で幼稚なものであることは言うまでもないが、物事を分けて判断することを苦手とする人々はそのような自己矛盾に気づかない。

それは、たとえほかのことに詳しくても、このような社会批判を口にしない人々が陥っている罠である。そして、その誤った商売に乗ってしまう人々である。

素敵な男性に告白されたら? 付き合うに決まってるだろ。

素敵な男性に誘われたら? 嬉しいに決まってるだろ。

そういう当然のことが分かっていない。それが不思議でならない。

「金を払ってるんだから言うことを聞け」などと言う言説もあるが、これはもうまさに「性の搾取」以外の何ものでもないことを自ら暴露したことであり、語るに落ちるということである。この言説に反対を唱えられないのはおかしい。

しかし、このような社会問題は決してマスメディアでは取り上げられない。

その他のこと(あれが面倒だとかあれが古いだとか)は取り上げられても、決してそのことには触れないのがマスメディアなのだ。これは「意図的」だということは申し述べるまでもないでしょう。なぜなら、日本のマスメディア自体が、その「性の抑圧」で商売しているからです。

ではどうすればよいのか。マスメディアにはもう期待できないということは、ネットユーザの人達にはよく分かっています。

だからこそ、今はブログやツイッター、インスタなどで多くの人たちが活動しているのです。

これが人間の力です。いくら押さえつけようとしても、外側に広がっていくのです。

社会的な前進は当事者によって作られるものである。

力強い人々が、そのようなメッセージを発することで社会は少しずつ変わっていく。

日本の目指す<方向>

今日の前回の記事でいきなり「読者」がついてしまったわけですが、これ、このブログは基本「オタクブログ」なので、非常に申し訳ない気分になっているわけです。

 

それはさておき、前回の私のエントリは日本の政治関係に散見される「誤魔化し言葉」について述べたわけです。これは婉曲や言い換えというやり方で、大東亜戦争満州事変~太平洋戦争)の反省として、強く語られていたことです。「撤退」を「転進」と言い換えるとかのアレです。

これはメディアにおいても重要で、だから90年代のテレビにおいては、戦争の話をする時はこのことが取り上げられていたわけですが、最近は全く取り上げられることはなくなりました。それはメディア自身が、ただ単に政治家の意向を汲んだ報道をするだけになり、メディア自身が、政治家や官僚の答弁をそのまま流し、一応は「疑問の声も」などという意味不明の言葉を使って「紹介」するも、これは議論ではなく、かの悪名高き「両論併記」法でしかなく、この「報道スタイル」は全く悪いものだということがすでに反省されているにも関わらず、それを臆病にも行う姿勢になっていることからも明らかです。(「疑問の声も」というのは私が嫌いな言葉の一つなわけですが、これは、ほとんど意味を成さないというか、まるで「幼稚園児の言葉遣い」なのです。要は「え~~~だけど~……(以下無言)」という言葉であり、ここで優しい保母さんになって「ん~? どうしたの~?」と聞いてあげなきゃいけないという態度なのです。これは報道していい言葉ではありません。つまり、

政治家「◯◯という風にしていきたい」

アナウンサー「しかし、…(手を動かすジェスチャーをし、意味深な拍を取り)これには疑問の声も」

というのは、

政治家「◯◯という風にしていきたい」

アナウンサー「え~う~ん~そうかもしんないけどぉ~」

というように言っているだけなのです。

本来、報道の側が「疑問」とか使ってはいけないでしょう。それを追求するのが報道の役目なんだから、「えぇ~!わかんなぁ~い!」みたいな態度とってることが異常なんですよ。普通(まあ私が見ているアメリカの報道ですが)なら、

アナウンサー「ですが、これにはこれこれこのようなことがあり、全く非現実的です」とか「しかし、かつて彼はこのように述べており、整合性が取れていません」

と言うように、「主張」としての「論評」があるわけです。

翻って日本のメディアでは「今後どうなっていくのでしょう」(俺は知ったこっちゃねーけど)という投げやりな態度が明確で、これは全く現代的な報道としての機能を満たしていません)

つまり、かつては「日本の反省点」を取り上げ、よく議論していたわけですが、最近では完全に失敗した(未だにインフレ2%にならない)アベノミクスの「反省」をすることもなく、なかったことにしているということで、つまり「意図的忘却」を行うことで「無反省状態」に陥っているわけです。だからこそ、戦争の反省もなくなり、ゆえに、戦争で反省したはずの過ち(大本営発表型報道)を再び繰り返しているというわけです。これはシンプルな話ですね。

 

つまり、あのような「言葉の濫用」は、かつてはそれが日本を誤った方向へと導いていたわけです。それは、人々が政策を議論したり、何が正しいかを決めたり、反省したりするための道具は「言葉」しかないわけですから、その言葉がいい加減な使われ方をしていては、まるでいい加減な物差しを使って家を建てるがごとく、崩壊へと向かうことは明らかなのです。

 

もちろん、そのような基礎的な「反省」も必要なのですが、では未来へ向けてどのようなことを議論すればいいのか。

これが今世界中で求められているわけですが、日本に入ってくるのは国際政治の大国、アメリカ・ロシア・EU・中国といった国々の情報ですが、日本は明らかにそれらの国とは重要度では落ちるわけです。カナダやオーストラリア、北欧といった国々と同じぐらいでしょうか。

かつては日本はGDP世界二位となった国ですが、もはやそのような繁栄は今後「あり得ません」。

であるなら、どうするか。

今後は否応なく世界はグローバル化へと向かいます。

当然、その中で各地での覇権争いが勃発します。

世界はより「接近」し、より「流動的」になるでしょう。

そうなった時、日本はどのようにして国民の幸福を実現するのか。

その「人々のあり方」を根源から議論する必要があるでしょう。

もちろん、そこまでのインテリジェンスのある人間というのは日本にはほとんどいないでしょう。

しかし、若い人々は、そういう日本で生きていくのですから、それは考えておいた方がいい。

というより、今の現役世代はそれを考える責任があるでしょう。

恐らく、日本の優秀な人は今後大勢海外に逃亡するでしょう。それは若者であり、また大企業も同じです。ジャック・アタリ氏によれば<サーカス型企業>というものが今後主流になるとしています。これは普通の言い方に直せば「グローバル企業」ということです。◯◯サーカスのように色んなところに来て商売することを意味します。

それは現実としてあります。そうなっては困るというのであれば、どうすれば自国を魅力的に出来るかを考えなければなりません。少なくともその方法はアベノミクスなどではありません。アベノミクスを続ければますます海外逃亡者は増えるでしょう。

まずは日本の大学をまともにし、また企業の採用方法もまともにすべきでしょう。就活とかいう意味不明のガラパゴス制度はすでにバージョンアップを怠った時代遅れのブラウザのように「腐った牛乳」になっており、「機能不全」に陥っており、多くの人がそのソフトウェアによる強制フリーズやクラッシュに悩まされています。

そういった各地で起こっている「歪み」を正すには、正しいビジョンを持たなければなりません。

それは「こういう国にする」というビジョンです。ちなみに、こんなのはダメです。

・円安により輸出が増加!

・製造業が復活し、工場が大量に新設、投資額アップ!

・学校は文科省の支配をより厳しく! 道徳の授業では「朱子学」を!

・残業時間を月90時間に確定! というかむしろ残業じゃなくて普通にやれ! 国民の労働時間を現在より30%アップ!

・有給の法制化を見送り! むしろ有給いらない! 24時間働けます!!

・正社員廃止! 国民は全員派遣社員になり、ピンハネが横行!

・なんやかんやでバブル経済の到来! 大インフレ時代! あの時代が蘇る!

 

これがいわゆる「昭和脳」です。頭が痛いのは、大体政府は今これを目指しているという笑えないアレなんですが。

ではどうすればいいか。大体逆のことをすればいいのですが。

まあこれは私の持論なんで、細かいビジョンというのは色々あると思いますが、そういうものを作ってそれに向かって行くというふうにしないと、散発的にアドホックな対策をしても無意味なんですね。

 

グローバルか保護主義かとかいう問題ではないんですよ。

これからは国は、魅力がなければ、まるで「つまんない田舎」の如く、あっさりと引っ越しされてしまうようになるわけです。

そうするとどうなるかというと、税収が減りますよね。つまり、経済が不活化して、その国は落ちぶれて行きます。

人を出さないために、企業の税金を下げれば、格差が増します。税金が高くてもいてくれるようにするにはどうすればいいか。それは快適な魅力的な国であること以外にありません。一言で言えば「競争力」ですが。

では、日本にその「競争力」があるか。

もしあなたが英語がペラペラだったら、日本にいるか。

オーストラリアかカナダか、シンガポールかアメリカか意外と通じるらしいドイツか。

そういうところに行ってしまうのではないか。

日本の英語教育はわざとなのかあまりにもアホなのか知りませんが、全く役に立ちません。だから、若者はクソ教育を受けさせられるという最悪な状態なわけで、つまり算数で言えば非常に質の悪い、高校3年生になっても2次方程式が解けないというような人を量産してるわけですね。だから子どもたちはもっと怒っていいわけです。高3になっても、小学生レベルすら話せない英語の授業を受けさせられているのですから。日本人は恥ずかしがってるから英語話せないとか言う奴いますけど全然違いますからね。「話す時の英語」を「知らない」から話せないだけであってね。だって、「こんにちは」「ご機嫌いかがですか」「今日は雨です」ってこんな英語教えられて喋れるかっつー話なわけで。Hey, What's up? って感じで普通の英語を知らなけりゃ話せませんよ。

まあそれはともかく、英語教育が今後は活性化されるでしょう。なぜならそっちの方が「経済性」があるからです。はっきり言えば、若い人で日本で働きたいという人は少ないでしょう。それは日本の自業自得ですが、日本の若者が海外に出ていくのはそういう経済性とグローバル化により人材の流動化が起こることの2つによります。

 

つまり、「国を魅力的にする」ことは、今後かなり重要になるのです。

それは、今までは国の競争は「民間が勝手に頑張る」でしたが、今後は民間は平気で国を離れるようになるので(グローバル化)、それを維持する必要があるのです。で、民間とは既存の企業だけではなく、人材も同じだということです。スーパープレゼンテーションでMITに勤めている日本人の二人がいますが、彼らのように「外国で仕事をする方がいい」という人が増えていけば(だってどんな日本の大学でもとMITだったら絶対MIT取るでしょ……で、それはもっと下の大学でもいいでしょ。どの辺かまでは人それぞれだろうけど)、どんどん高度人材は流出し、競争力はさらに下がるでしょう。

だから、私はそういう意味で国を改善すべきだと言っているわけです。

それを怠れば、単純に国力は下がっていくよ、という当然の結果を言っているだけです。