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デスゲームの反転現象としての異世界転生

デスゲームと異世界転生はどちらもきっかけは唐突な<世界>への転送である。

 

どちらも、ゲーム的要素が強い。

デスゲームは言うまでもないが、異世界転生においても、その世界はリアル(?)なファンタジー世界というよりは、明らかにビデオ・ゲームの<世界>としてのファンタジー世界であることがあげられるし、たとえパラメータ(「ステータス、オープン!」)が存在しなくても、文学的リソースは明らかにビデオ・ゲームからのものとなっている。

 

デスゲームとは何か。

実はこの物語類型においては大きく分けて二つの分類があり、それは「対人型」と「試練型」とでもいうべきものである。

「対人型」は「バトル・ロワイヤル」に代表される分類で、これ以上の説明は要しないと思うが、そういうことである。大体生き残りは一人である。

「試練型」は、映画「CUBE」が一番分かりやすいのではないか。筆者は未読だが『死のロングウォーク』もこちらに入るだろう。「CUBE」にあるように、協力体制を取りながら「試練」を乗り越えていく。

ここで気づくように「試練型」は多くの少年漫画ではおなじみのシチュエーションを包含している。何も死ななくても、ある種の「ライセンス」を獲得するためにふるい落としが掛けられるというシチュエーションはおなじみであり(「HUNTER×HUNTER」、「NARUTO」等)、現実の過度に競争を強いる学歴社会の構図がここに表れていると言えるだろう。

また、試練型と対人型はどちらが基盤でも、両種の分類を混在させることは可能であり、このような雑種現象は文学という空想の産物世界では当たり前の出来事であり、このような現象が文学批評の困難さの原因でもあるのだが、物語に意外性をもたらすためにそのような創意工夫が行われることもある(映画「SAW」等)。

 

異世界転生にこのようなデスゲームのような分類は可能であろうか。

恐らくはなんらかの分類が存在するだろうが、そもそも異世界転生はデスゲームそのものの反定立としてあるので、同じ分類はない。

異世界転生においては、ルールは否定される。

ルールの不在ではなく、ルールはルールとして機能することを否定されているので、その存在意義はなきに等しい。

全てがチートという能力で突破可能であるから、戦車の前に石ころや木の棒きれがどのような違いもなく「障害物」としてしか分類されないのと同じである。

 

デスゲームが「ルールの強制」であるなら、異世界転生は「ルールの無化」である。

異世界転生の主人公がデスゲーム(「対人型」)に放り込まれたら一瞬で全員を救出してしまうので話にならないだろう。試練型では無論、主人公が試練に苦しむことなどありえない。

 

どちらも極端な制度の下に成立していることが分かる。

しかし、このような世の理不尽に対して苦しんだり、無条件の解放を願ったりするのは、昔からの人間のしてきたことである。

異世界転生における「世界」は、仏教説話における極楽描写のごとく快に満ちている。

民衆の願望が素直に表れている、現代の説話というべきであろう。

 

デスゲームが地獄なら異世界転生は天国ということである。

涼宮ハルヒの衝撃

涼宮ハルヒの憂鬱』とは何だったのでしょうか。
それは、それまでにあった「ライトノベルの形式」を破壊し去った作品として、君臨したのです。

どういうことでしょうか。
涼宮ハルヒの憂鬱』の包含する<世界>の定義から始めるのがいいでしょう。
その<世界>は、いわばテンプレートともいえる「平凡な高校生モノ」と言うべき<世界>のことです。
そして「平凡な高校生」が、様々なことに巻き込まれる、というのがある種の「ライトノベル」の型なわけですが、『涼宮ハルヒの憂鬱』はこの作品に風穴を開けてしまった。
それは、一つの優れた作品としてメタフィクションを構築してしまったということです。

「平凡な高校生モノ」は、何もライトノベルに限るものではなく、多くの美少女ゲームと呼ばれるゲーム群にも採用されている型ですし、ほかに『ペルソナ』に代表される「JRPG」などにも採用される物語の<世界観>です。
現代の、改変なしの現実を生きる高校生が、怪奇(ファンタジー)現象に巻き込まれることというものはいくつもありますが、筆者の個人的なライフヒストリーでは『ブギーポップは笑わない』という作品が、ライトノベルの中では印象を残しています。もちろん、ライトノベルの歴史の中では無数の類型の<世界観>を持つ作品があるでしょう。

涼宮ハルヒの憂鬱』はそれらの「平凡な高校生モノ」に共通の型をメタ的に包含してしまいました。

この中に、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上(『涼宮ハルヒの憂鬱』より)

このように啖呵を切ったハルヒの生活は、しかし、平凡極まりないものでした。
キョン自身は本当に平凡(普通の人間)だが、それ以外の人間はみなそうではありません。
しかし、物語はそのような「逸脱」を抑制します。なぜかといえば、それはあくまで「ライトノベル」でなければならないからです。「ライトノベル」の持つ世界とは、あくまで十代、二十代の市民(ブルジョワジー)にとって、その世界を「認識」させるものの範囲でなければなりません。
だから、社会的に逸脱した人間を描写したり、投げかけることは慎まなければなりません。
それはあくまで「キャラクターの経験」であって、必ず「元の現実」に返ってこれる範囲でなければなりません。
そして、平穏で保守的な現実を再認識するという効果を発揮する必要があります。
だから、『涼宮ハルヒの憂鬱』の中で、ハルヒはごく当たり前の日常を生きているに過ぎません。
読者はその裏側の世界を見ていますが、もしハルヒ視点の『涼宮ハルヒの憂鬱』があれば、それは非常にごく当たり前の日常になっているでしょう(この点、のちに勃興する日常モノの観点が裏書として表れていることに驚きます。ハルヒは日常モノの始祖でもあるのです)。
キョンは普通だし、古泉は単なる転校生、長門はただ本を読んでいるだけの無口な女子生徒、みくるはごくありきたりの女子生徒でしかありません(もし仮にみくるが絶世の美女だったりしたら、ハルヒならアイドルデビューぐらいはさせるだろう(そういう話があるかは知りませんが))。
キョンや古泉の役回りとは<世界>を保守的なものにとどめるように努力することです。
これはある種ライトノベルという市民(ブルジョワジー)の娯楽の世界を現しているように見えます。
涼宮ハルヒの憂鬱』はライトノベルメタフィクションなのですから、ライトノベルそのものに対する批評の視線が混じるのは当然のことなのです。
仮にこのままハルヒが成長し、大学に進んだ場合(というか進むのだが)、ハルヒがたとえば「現実の世界の改変」を望んだ場合はどうなるでしょうか?
たとえば、それ以降、ハルヒが政治に目覚めたりした場合、この世界はハルヒが望むように改変されてしまうことは明らかです。
ハルヒが「〇〇イズム(なんでもいい)」ということを考えただけで、それは世界に反映される。
もちろん、これをギャグ的に描くことは可能です。
『総理大臣 のえる!』という作品では中学二年生の女子中学生が悪魔との契約で総理大臣になるという話が語られます。
しかし、それはギャグということでリアリズムとしては語られません。
一方で『涼宮ハルヒの憂鬱』はリアリズムの作品なので、そのような「世界の逸脱」は避けなければなりません。
涼宮ハルヒの憂鬱』の限界が、ライトノベルという市民娯楽の型の限界そのものに達していることが分かっていただけたでしょうか。
涼宮ハルヒの憂鬱』はメタ思考の階段を昇りつめ、その天井はライトノベルという型の限界を示してしまったのです。

一方で、そこからとりこぼされた「ハルヒの日常」は日常モノとして、再び市民娯楽の安逸な生活を確保することに市民娯楽は成功しました。
それはハルヒ的な世界改変を望むのではなく、さらに保守的に、今ある目の前の日常生活を享受することに視線を向けることで、ハルヒ的な問題を回避する方向でした。
しかし、四コマ漫画ならそれでなんとかなっても、ライトノベルという形式では難しい。
ライトノベルはこの破壊つくされた「平凡な高校生モノ」以外の道を探さざるを得なくなった。
一つの道は「学園異能(魔法)バトルモノ」です。
そもそも現実の学校でなければ、ハルヒ的問題は発生しない。
そこにある「学園」は現実の平凡な学校とは無関係なのだから、ハルヒ的な問題は発生しない。
もちろん、過去にこのようなハルヒ的なメタフィクションはあったかもしれないが(なんといってもメタフィクションの歴史は長いのだ)、ハルヒが破壊したのは、今の学園モノであり、それは今のリアルです。
昔の「高校生」と今の「高校生」は違うのですから、以前の破壊から建設が進んだ結果、再び破壊的なメタフィクションが登場することで破壊が進行するということはあり得ます。

同様の結果が「異世界ファンタジーモノ」ということができます。
これもごく普通のエンターテイメントの形式であり、むしろ伝統的といってもいい。
VRMMOは、面白い問題を提供しているようにも思えますが、どこまで可能性が広がるかは分かりません。
それはリアリズムによって可能性が広がるように思えますが、人気なのは古典的な「エンタメ」としての作品であるようです。

ついでといってはなんですが、「異世界転生モノ」の限界も述べましょう。
それは「現実の世界」がやはり限界点なのです。
もちろん、単にゲーム・ファンタジーを世界の中で再確認する、ウロボロスのような作品は、すぐにネタ切れに陥るでしょう。
その作品の限界は「ゲーム・ファンタジーの話」を模倣することですから、せいぜいラストはドラクエか、JRPGモノに似たものになる、という予定調和を迎えるだけだからです。
そうではなく、むしろいわば「知識無双」とでも呼ぶべき作品群も、結局は植民地主義的なロマンを提供するに過ぎません。
ですから、仮にその土地に科学施設などが建設され、産業化が行われたとして、それは主人公自身が逃れてきた「近代的小市民(ブルジョワジー)」の世界を、再びその「異世界」に出現させることにほかなりません。
もちろん、その矛盾を無視する限り、何かしらの「達成感」をもって終わらせることはできるでしょうが、さすがにその矛盾に気づく読者も多いのではないでしょうか。
「異世界モノ」は「ユートピアモノ」につながる概念です。
だからこそ、私は別所で「異世界モノ」をユートピアモノにした作品を描いたことがありますが、これは単なる「魔王も何もいない理想世界」が形成され、異世界転生というものは完全にユートピアモノに変貌してしまいました。相似形というべき形で、それはそのまま変形できてしまいました。
なぜなら、わざわざチート能力など持たずとも、最初から転生先の世界がユートピアなら、話はそこで終わってしまうからです。
少し考えれば分かることですが、主人公が住む「異世界」はひどく不平等な世界なのですから、その「社会改良」を考えることが普通だと思いますが、まあそういうことは等閑に付されるのが当然です。このような矛盾は「現代の高校生モノ」を無理やり異世界モノにつなげることで生まれる矛盾でしょう。

「異世界転生モノ」で言われるのは「ファンタジーの復権」と思われていますが、現実はそれは「現代の高校生モノ」の変形だということがお分かりいただけたでしょうか。
それは、いわゆる「ファンタジー」と呼ばれる「異世界そのもの」を作ることが目的なのではなく、あくまで「現代の高校生の生活・願望」を描くことが目的なのです。
だからこそ、主人公は異世界住人ではなく、現実の高校生でなければなりません。現実においての怪奇(ファンタジー)はハルヒによって破壊されたので、それは「異世界転生」という形式で全くの別種世界に旅立たなければならなくなったのです。

たくさんある物語

物語には上も下もない。

ただ、どれだけすごいか、である。

 

なんか軽く書こうと思ったら重々しくなっちゃったので、もっと軽く。こう、すぐ文体に引っ張られてしまう・・・。

たとえば、 The Best American Short Stories という本(シリーズ)がある。

こちら名前の通りの本なのだが、始まったのが1915年。現在2017年まで出ている。

無論、100年越えである。

アホですね。

この情熱は半端ない。

これだけの量があるのに、未だに物語は作られているわけです。

この増殖する物語。どう整理すればいいのか。

それは各人の心の中にあるわけですね。

私が先ほど最高の物語を書きましたが、あれは私の最高の物語なわけです。

色々物語を読んで、はーなるほどと言ったり、いいね、うまいな、だったり無言で泣けたり。いろいろあるわけですが、結局一番だったのは何かなと思うとKanonAIRCLANNADなんですね。

そういう軸がある。そういうことを、改めて最近思いましたね。

これは別に、超個人的なことだから、誰かに強制することじゃないんですけど。

最近はアメコミにハマってますしね。真逆ですけど。

 

多分、今、日本で小説が好きな人、特に文学傾向の人は、多分村上春樹好きが一番多いんですよね。

もっとエンタメよりな人は東野圭吾とか。

ちょっとひねくれた20代、大学生なら西尾維新とか。

オタクっぽい子ならSAOとか。さらにはWeb小説(異世界・俺TUEEE)とか。

女性だと、有川浩とか。

そういう、いろんなジャンルがある。

無論、古典もあって、そういうのは色々。

そういう、人にはマイ・ベスト的なのがあると思うんですけど、その中では私はやはりKeyだなあ、というのが、Kanonの曲を聴いてるとしみじみと湧き上がってきたんですよねえ。やっぱ別格ですねえ。

 

もちろん、色々楽しんでますからね。ミステリ、SF、まあ色々。

でも、古巣というんですかね。

多分、年に一回ぐらい、こうしみじみと思うのは、やはりKeyなんですねえ。

物語、論

物語とは、なんだろう。

小説、が一番初めに思い浮かぶ

しかし、小説、とは近代になって生まれた形式である。

それ以前は、たとえばグリム童話などの童話、英雄叙事詩、神話、カンタベリー物語などもある。

映画にも物語はある。アニメにも、漫画にも。

よく言われるのはフランス語では歴史も物語もどちらもhistoireという単語で表される、ということ。

 

Keyの描き出す「物語」は、通常のメディアの枠組みを越えている。Keyはゲーム会社だから、Keyの作品は「ゲーム」と呼ばれるし、その中の物語は「話」や「シナリオ」と呼ばれる。

しかし、Keyのゲームは、シナリオという枠組みを飛び越えて、また通常の枠組みの物語という観念を飛び越える。

CLANNADは人生」とは、その<体験>を率直に述べた、稀有な表現である。

物語が、それを読んだものの「人生」にまで迫る。

これこそが、物語の根源的な姿ではないだろうか。

人間の、人類の足跡は歴史=物語であれば、物語こそが、人間の姿なのである。

そして、最高度の物語とは、人間そのものの表現になる。

それが、物語としての芸術の姿である。

 

Keyのゲームをプレイすると、すべてがその世界に包摂されていく。

音楽、ビジュアル、テキスト。

すべてが高度に嚙み合わさり、ゲームがひとつの世界を描き出す。

日本の物語はここに収束し、ここからしか始まらない。

日本で最高の物語

1900年代最高の物語。

それは『Kanon』(Key、1999)です。

2000年代最高の物語。

それは『AIR』(Key、2000)です。

X-Men Blue

X-Men Blue はいいですね。

若々しい感じで。

翻訳しないかな。しないな。

原書(2017年4月12日)

 

X-Men は歴史を見てもカオスで諦めましたね。

なんか Uncanny X-Men も Vol.4 が止まってるし、よくわかりませんね。

Marvel Legacy とかいうのがやってますが、あれのせいですかね?

また再編とかなんですか?

なんにしろアメコミはやはり英語が読めないときついですね。

バットマン

バットマン:アイ・アム・ゴッサム

Writer : Scott Snyder, Tom King

翻訳2017年9月6日↓

原書2017年1月11日↓

続編:

BATMAN VOL. 2: I AM SUICIDE(2017年4月12日)

Writer : Tom King

翻訳11月8日予定↓

原書↓

BATMAN VOL. 3: I AM BANE(2017年8月30日)

Writer : Tom King

原書↓

 

あー疲れた。

 

アメコミはリーフと単行本(TPB)の関係が分かりにくいんだよねえ。

上の Tom King 氏の連載誌は「BATMAN 2016」(DC表記)「Batman vol. 3」(Wikipedia表記)。

まあ、 BATMANBATMAN だから、一番新しいの買ってけや! みたいな感じなのかもしれませんが。

日本のジャンプとかだと、ちゃんと何号とかでかでかと書いてあるし、単行本は絶対連番だしで、それに慣れてると、「どれ買えばいいの?」感半端ない。