インターネットで何ができる?

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移民か衰退か

人がいなくなるんだから、その分「減少」の過程で経済が衰退するのは当たり前。

 

何を騒いでいるのだか分からん。

移民もヤダ!衰退もヤダ!

って駄々っ子かよ。

移民が嫌なら衰退するほかないし、衰退が嫌なら移民しろよって話だろ。

安直な語り ピーチクパーチク

tweet - 〈小鳥が〉チッチッと鳴く. (weblio)

 

よくもまあこれだけベストな名前をつけられるなあ、と。

 

小鳥たちのおしゃべり。

それがネット空間を支配することになるだろうとは、誰が考えただろう。

あちこちでピーチクパーチクと今日も囀っている。

その囀りには教養はない。

残るものもない。

一面的で、断片的な、囀り。

しかし、人々はその囀りを毎日のように追いかけている。

自らを囀りだと言い訳して誹謗中傷を繰り返したり、嫌がらせを行う者もいる。

本物の小鳥の囀りなら害のないものの、小鳥を偽装して人に嫌がらせをするのが、インターネット小鳥の流儀だ。

 

良き道具も、悪しく使える。

人は感情的 議論のレベルを上げる必要性

日本では、コラムやインタビューを受ける人達がよく「感情的」という言葉を使う。しかし、感情的でなければ、冷徹な功利主義者が正しいというのだろうか?

 

また、人は案外不合理だということも分かってきた。

その辺も大事だ。まあ、そこまでの話ではなく、もっと低いレベルの話なのだが。

 

一般的に、人は議論で劣勢に回ると相手を「感情的だ」とレッテル付けることで、勝者の土台に指を引っ掛けようとする。

しかし、感情的だとレッテル張りをしても、議論に勝ったことにはならない。感情的になっている相手には、必ず論理の穴があるはず(というか、そういう意味だろう)なので、その点を突く必要がある。

だが、多くの議論は一般的に決定不可能なことについて話すことが多い。結局のところ議論というのはネゴシエーションであり、取り分の分け前について話すぐらいが関の山だろう。

 

話が脇道に逸れてしまった。

最近は、議論の時にあからさまに「話題そらし」をすることが増えたように思う。特に酷かったのがメイ首相のミサイルの件で、TVインタビューで数回も目の前で「知ってたんですか?」と聞かれても答弁をはぐらかしていた。

こういう時は「YESかNoで答えて下さい」というのが一番いいのだが、残念ながらインタビュアーにそこまでの勇気はなかったようである。

 

何かの本で読んだが、この「話題そらし」がすごくいいんだ、みたいに書いてあって、それを読んだ時私は「なるほど」と思っていたが、それが一種のブームみたいになっているのは面白い。みんなその本を読んだのだろうか。(何の本だったのかは思い出せないのだが)

この話題そらし戦術は、使われるとなえる。

この前米国のニュースで、トランプの入国禁止の件で裁判所に訴えた人が出てきた時、トランプが言った「テロが起きたらどうする」というのを、テレビのアナウンサーがそのままその人に聞いたら、あからさまな話題そらしをしたのにはがっかりした。もちろん、それ以上に話題そらしをする人は多いのだが、こういうちゃんとしたような人までそういう戦術を使うほどメジャーなのかと思った。

 

この話は『ズートピア』でも出てきたな。ちょっと違うが、相手の質問を自分の質問にすり替えるというものだ。一応善側の意見として出ていたが、俺はこういうのをいい方法として教えるのはよくないと思った。

 

日本では、まだこの論法を真顔で言える人はそう多くないと思う。

ただ、言論の激しい米国では、こういった技術は不可欠なのだろう。

日本では「その件については差し控える」の一言で済むから楽である。「いや答えるのがお前の仕事だろ!(笑)」というツッコミを誰もしないからね。

 

結局、人間はどうにかして対策を打ってくるということである。

こういう話題そらしをされた時は、対策としてはちゃんと話を戻す以外にないように思う。また他にもいくつか対策はあるだろう。見方を変えてみるのが上手くいくコツだろうと思う。

本音と建前は空転する 「<建前 - 本音>議論」の詭弁、無意味性

確か加藤典洋の『日本の無思想』だったはず。

日本の無思想 (平凡社新書 (003))

日本の無思想 (平凡社新書 (003))

 

 その中に「本音と建前は、どっちにもあてはまる」という話が、文学賞の架空のケースを題材に論じられていた。

ちょっと読むと言ってることが分からなかったのだが、今回、別のケースで書いてみようと思う。

なぜ理性よりも感情が重視される?「 クソ社会が続くだけなら、本音を言わせてもらうぜ!」 - Ameba News [アメーバニュース]

という記事を見て思った次第。

「本音とは何か?」ということと、トランプの言説について。

 

某人の話などを聞くと、「トランプの人種差別的発言は、得票のために言っただけの、単なる建前」ということらしい。

しかし、世間一般では、あれを「本音」として捉えている。

ここでは、要はその「トランプの真意」なるものが、結局のところ決定不可能だということに尽きる。

本音:人種差別的考え 建前:得票

建前:得票 本音:人種差別的考え

 

これには前段がある。つまり、

建前:PC 本音:人種差別的考え

ということである。しかし、某人によれば、

建前:人種差別的考え 本音:得票

となる。ここで、論理が空転する。つまり、厳密にはこれは話題そらしなのである。建前というのが、「倫理的に維持すべきもの」から「単なる嘘」へとその意味が変化している。

そして、空転するのは、「単なる嘘」と言う時である。

なぜなら、嘘かどうかを決定できるのは本人しかいないからだ。それは「気持ち」は本人しかわからないからだ。だから、結局のところは、その本人の「気持ち」を他人がどうこう言っても「無意味」というに尽きる。そして、議論をこの話、『気持ちの話』に引き込むことは、議論を悪くすることなのである。

 

また、付け加えるならば、この「建前 - 本音」の論理の鎖は、「風が吹けば桶屋が儲かる」ごとく、無限の後付を許す。

たとえば、ここで架空の大統領がいる。

彼は人種差別的発言を繰り返した。それは得票を得たいがためであった。「得票」の理由を「娘が喜ぶ」というようにしたとしよう。そして、では娘はなぜ喜ぶかといえば、娘のブランドが儲かるから、というようにしよう。そして、なぜ娘のブランドが儲かることを目指すのかといえば、何か買いたいものがあるから、としよう。で、なぜそれが買いたいのかとすれば、それを娘が買うことで、娘が大事にしている人が儲かるから、としよう。で、なぜその娘が大事にしている人は儲けたいのかとすれば、父親に自分の力を認めて欲しいから、としよう。

 

さあ、ここで整理しよう。架空の大統領候補の『本音』とやらをだ。

建前:人種差別的発言 本音:得票

建前:得票 本音:娘に喜んで欲しい

建前:娘に喜んで欲しい 本音:娘のブランドが儲かる

建前:娘のブランドが儲かる 本音:娘が買いたいものがある

建前:娘が買いたい者がある 本音:娘が大事にしている人が儲かる

建前:娘が大事にしている人が儲かる 本音:その人が父親に自らのビジネスの才能を認めて欲しい

 

このように、事物の関係性というのは複雑に連なっている。

つまり、何が「本当の動機」なのかというのは、単純には決定出来ない。

そのような論理の底なし沼に入り込んでしまうのが「<建前 - 本音>議論」なのである。つまり、解が恣意的になってしまう。

 

物事を判断する時は、その「行動の事実」のみに焦点を当てなければならない。

「いや、本当はこういう理由があった」などという下手な弁護は止めなければならない。それで通じるなら、「これは人類を救うためなのだ」と言えばどんなことも許されることになってしまう。

それは詭弁である。

日本人はゲームをやらなくなったのか

疑問形で書かれるタイトルの記事のほとんどは否定される系記事。

 

スマホゲー市場は伸びており、総数は分からないが、CSと合計した場合の、つまり総ゲーム市場というものはそれほど下がっていないのではないか。

 

確かにCSとの市場は下がったが、それはゲーセンの市場が下がった!というようなもので、ゲーセンからCSに移行したように、CSからスマホに市場が移行することも十分に考えられる。

 

こうした時、勘違いしてはいけないのは、「CSがつまらなくなったから」という論だ。そもそも面白い作品/つまらない作品を定量的に計測する術などないのだからこの議論は無意味だが、消費者の嗜好がCSからスマホに移行したという、市場の移行として現象を見ていった方がいいだろう。

 

もちろん、日本の子どもの数は減っているので、そう言った点では日本の市場は不利である。

だから、欧米でもスマホゲーは盛り上がっており、CSも同時に盛り上がっているのに、日本だけCSが異常に下がっているのはなぜか、と問うことには意味があるが、そのCSすら食ってスマホが盛り上がっているのではないか、というのが単純な結論である。

 

ある人はCSは食わず、パチンコ市場を食ってるというが、懐疑的だ。パチンコとスマホは別物である。だから、スマホゲーがCSを全く食っていないというのは違うと思う。

 

なぜCSよりもスマホゲーに選好されたかというのは、ライフスタイルに大きく影響されるだろう。都市集中型の日本では、都市圏の物価が異常に高く、それが広範囲に亘るので、山手線エリアには全く住めず、そのため電車の移動時間が長く、また長時間勤務を強いられるという労働環境の未整備が特徴だ。

だから、当然家に帰ってから腰を据えてゲームをプレイすることが多くの人には難しい。その不便があった中でスマホゲーというのは、時間のない日本人にマッチングする傾向が強く出たのだろう。

スマホゲーのよさは手軽さである。

対してそれとトレードオフにあるのは、「重厚さ」や「豪華さ」である。

外国では、労働環境や都市計画が整備されているため、それほど「手軽さ」は求められていない。多少はあるが、それが滅茶苦茶強く訴求するということはなく、そのためCSはスマホゲーと「重厚さ」で戦うことができる。

対するに日本では、「手軽さ」が非常に重視される。それは繰り返しになるが<遊び>の時間を全く考慮に入れない制度が定着しているからだ。そんな中で、手軽なスマホゲーが出てきた時、それに対抗するにCSは非常に不利だった。

 

これはたとえるならレストランとハンバーガー・ショップの対立に似ている。

忙しく働く人達の中で、ゆっくりとワインのボトルを選び、コース料理は間隔を開けて運ばれるレストランと、一瞬でセットが出て来るハンバーガー。これが、集団の中に投下された時、どちらが選好されるか、ということである。

 

以上が「ライフスタイルの違いから考えるスマホゲーの強み」という話である。

ただし、異常にガチャガチャが好きな日本人の特性などがマッチするゲームデザインを容易に提供できるようになったなどのほかのスマホゲーの特徴もあるので、これだけで全てを説明できるわけではない。

もちろん、マジックなども欧米では流行っているから、別にカード文化が特徴というわけではないし、ハースストーンも海外で流行っている。

だが、やはりガチャの強さは日本の特徴であることも事実だと思う。

AI化は一部の人の問題ではない

むしろ、それに関わるのは、大勢の人達だ。

 

ごく一部の、高技能職は代替不可能だろうが、単純労働のほとんどはロボット化される。

そうすると、上手いこと高技能職にありつけた人はいいが、そうでなかった人達はどうしたらいいのか、という問題が生じる。

又、その未来を予見するのが非常に難しくなっている。

「これをやっていれば将来安泰」という職業は、今ほとんどない。医者とプログラマーぐらいだ。政治家はなるのが難しい。

また、会社自体が少数で成り立つようにどんどんなっていくから、その就職先も、時間が経つに連れ狭まっていく。

そういうプレッシャーが社会に加わる。

これは時間との競争でもあり、またAI開発との競争でもある。

たとえばタクシー運転手は今後どうなるか分からない。

レジ係もスーパーがAmazon Go化されれば、一切いらなくなる。品出しぐらいだろうか。

意外に調理人は食いっぱぐれないだろう。

 

「職業の創出」ということは、今後大きな問題になるだろう。

「労働」の根本的な転換

が起きるという話。

 

今現在、工場や、配送、レジ係といった仕事があるが、これらのほとんどはロボットに転換される。

具体的には、工場はアームロボット、配送はルンバみたいなやつ、そしてレジ係はAmazon Goというすでに未来のプロダクトがほぼ現実化している。

そういった社会の「大転換」がある。

そんな中で、「政治がどうの」「財源がどうの」という話は、本当に表層的な話でしかない。

 

これから起こるのは、恐らく人類未曾有の大転換です。

それは、産業革命以上の革命になるでしょう。

もちろん、これですらまだまだで、恐らく100年後の人類はデジタルデータになってるでしょうが、まあその話はおいといて(この話は秘密だ!)。

 

ロボットによる産業革命で、人間の仕事は徹底的に奪われる。

しかし、これは「奪われる」という表現は正しくない。なぜなら、人間は科学技術によって一生懸命仕事をなくすことを行ってきたからだ。

たとえば、現在の田植えは、ほとんど農業トラック1台によって、何十人分もの田植えが代わられてるが、それを問題にする人は誰もいない。

そもそも、運搬トラックだって、昔は人の手(馬)で運んでいた。

馬に比べればトラックは何トンもの荷物を運べる。しかし、それを「仕事が奪われた!」と騒ぐ人はいない。

 

では、何が問題か。

それは、技術の進化スピードが、仕事の創出に追いつかなくなることです。

トラックが生まれても、それを作る人などが生まれていましたが、ロボット(AI)の場合は、どんどん人手がいらなくなります。

もちろん、それに従って需要が増加すると見られていますが、恐らく需要を上回ってしまうでしょう。

つまり、日本の農業にそのヒントはあるわけですが、減反政策みたいに、補助金を出さないと、「仕事の存在」の維持ができなくなってしまうだろうということです。

 

じゃあ、どうしたらいいんだ。

そんなことは俺に聞かないでほしいのだが、それぐらいの社会的なインパクトがこれから訪れるということです。

だから、その大勢生まれる失業者の対策をしないと、ひどい社会格差が生じてしまうということです。

つまり、旧来の資本主義的思考ではこのピンチを乗り越えられないというわけです。

 

これは、たとえるなら「士農工商」やってた江戸時代から、明治時代の民主主義(本当は違う)の転換ぐらいの、発想の転換が必要だということです。

これを、士農工商時代にたとえると、「農民は一生農民が当たり前!! 生意気言うな!!」みたいな論理でいれば、国の没落は必至でしょう。それぐらい、変化がいる。

この大転換にうまく乗れたか乗れないかで、産業革命時代のように、国の優劣がドカッとつく時代が今だと思います。

それは単なる技術力の話ではなく、社会的なコンセンサス、社会的な制度の成熟の違いが、直接的に国民生活の質に関わってくるでしょう。

 

ゴールドマン・サックスでは、すでにAIの導入によってトレーダーが600人から2人にまで減らされたという話です。

このような大転換にどう立ち向かっていくのか。

これを真剣に考える必要があるでしょう。