インターネットで何ができる?

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みんながやりたい仕事「だけ」をするということ

このブログのコンテンツの一つに労働というテーマがあり、まあテレビ批判や日本社会批判(これは包含される)と同じぐらい人気がないコンテンツで、そんなものよりけものフレンズの記事でも上げた方が100倍ぐらい人気があるみたいなんですが、それはともかく、現在、日本で農業従事者というのが何人かは皆さんご存知ですか?

農業労働力に関する統計:農林水産省

農林水産省によれば2016年で192万人ということです。分かりやすい数字で200万人として、日本の総人口1億2000万人のうちの1.6%という結果です。

つまり、日本の農産として生産するのに、全体の1.6%の人で成立するということです。つまり98.4%の人は自分では生産せずに農産物を得ているということです。

 

昔はやりたくなくても農産物の生産者にならないといけませんでしたが、今やこのパーセンテージで成立している。多分、全人口で言えば、ちゃんと給料が出るなら農業についてもいい、という人は結構いるでしょう。それで儲かる、となればやってもいいよ、という人は多いと思います。

 

つまり、要は「お金が出るならやる」という仕事は多いということです。だったら、それは適切な給料が出れば、それで成立するということです。

 

日本のブラック企業の問題などは、「やりたくないことをやることが仕事」という<洗脳>、洗脳という言葉が強烈なら「思い込み」とでも言いましょうか、そういう考えを吹き込まれていることが原因でしょう。

明らかに月数十時間も残業をしたり、終電ギリギリまで会社の机にヘバりついていなきゃいけない、などというのは異常なわけですね。

本来であれば、「ふざけんなよクソ会社。てめえのとこなんか辞めるわ」と言って、全員が辞めてしまえば、その会社は翌日から社長一人を除き一切の活動が不可能になり、新たに雇用しない限り崩壊するでしょう。

実際に、そういうことはストライキとして仕事の手を止めることで交渉をする、ということは普通海外の国では行われています。

しかし、日本ではそのような行動に出る人が少なく、かくて過労死などの国際的に特異な現象が発生しています。

 

つまり、私が言いたいのは、全員が「好きなこと」を、やればいいんです。

ただし、労働時間というのは、長い時間実行すればある種抜け駆けとして機能してしまうので、それは防止する必要があるわけです。

だから「残業月100時間未満」とかいうアホなことはせずに、ドイツのように残業は禁止にしてしまえばいいんです。

語られなくなる日本&ネット

それ以上に大きな問題があるわけですが。

じゃあ、今日本ってどれだけ価値のある国なの? っていうところですね。

いわば経済立国として、世界GDP二位になったことが日本の誇りだったわけですが、今はその経済も低調。大企業が台湾企業に買収されたり、巨額の<不適切会計>を起こしたりとその威信は全く過去のものになってしまったわけです。

じゃあシステムも新しくしようよ、というところにも後ろ向き。英語の教育レベルも低く、そもそも学校の教育が大枠で戦後から変わっていない。つまり70年前のシステムのまま動いている。

そういう古臭い縛りがある中で、どれだけ日本というものに価値があるのよ、というのもよく考えなければ行けない問題でしょう。

「みんなで貧しくなる」といった社会学者がバッシングされていましたが、これはつまり「このままで行けばお前らみんなで貧しくなるぞ」という真っ当な予測であって、だったらどうしたらいいか、というのが真っ当な反応で、「そんな暗い予測は言うな!!」という反応はまさに太平洋戦争での「日本が負けると言うなどけしからん!!」という神国思想と同じなわけです。この発想の問題点は、そういうことを言うな、というのは、そうなると思ってるから「否定したい」という情動で動いているわけですね。アホじゃないんだから、論理的には分かっているんですが「分かっている、が、それでも暗いことを言うな!」という「気持ちよさ」だけを求める、いわば現実から目を背ける都合のいい言葉を求める感情があるわけです。

そういう中で、「みんなで貧しくなる」っていうのは言葉を変えれば「世界の中で、相対的に貧しい国になっていく」ということでして、他の国がどんどん豊かになるなかで日本だけが貧しくなっていく、ということです。

そうなると、今までと違うのは、今はネットがあり、また渡航が自由だということです。渡航の自由化が起きたのは1964年、東京オリンピックの年ですから、案外最近の話なんですね。

で、経済的にもグローバリズムというのが広がった今、英語という共通言語、そして言語に縛られない、要は日常会話レベルの英語とプログラミング言語さえ書ければ、どこの国でも自由に行けるというこの時代に、どれほど国に縛られている必要があるのか、ということです。

だから、ある種意識の高い人は「海外に出よう」という話をします。一方でそんな高度な熟練技術を持たない人は国に縛られざるをえないわけです。これは暗い話ですが、客観的に言えば、日本という国は海外から見れば滅茶苦茶先行きの暗い国だという風に思われているでしょう。

 

話は変わってテレビとネットの話をまたすると、今はもうたとえばアプリ全盛の時代でして、テレビで芸能人追っかけるよりアプリでガチャガチャ引いてtwitterで見せあってウェーイしてればいい、というのがライフスタイルなわけであって、そんな時にテレビがどれほど意味のあるものなんだろう、ということです。

また、ネットでも映像は簡単に流せるし、別にタレントのトークなんてカメラ一台あればできるんだから、もうそれでいいじゃん、となってしまう。

だからアメリカではテレビ番組が非常に高度になってきて、ネットと競争しないと勝てないぞ、という風になっている。

だから、日本でもタレントが大勢ネットに現れる用になって、それで成立してしまう、要は飯の種がそれで稼げる、別にテレビなんかにわざわざ出る必要はなくなるということは大いに考えられるわけですね。そうした中でテレビのあり方というのはだんだん歪んでくるわけですよね。この辺、テレビ上では問題になってくるかもしれませんね。そうなる前にネットが抜き去れば誰もテレビなんかどうでもよくなって、むしろネットの問題について語ることが中心になる、というのがあるとおもいますが、だから今は過渡期で、多分これも安易な言い方ですが2020年のオリンピックを最後にテレビの役割というのは大体のところ終わって行くのだろうなというのは思いますね。消えるわけではないけど、まあまず今よりずっと注目度は下がるでしょうね。

語られなくなるテレビ

ブログ名の割にテレビの話題が好きな私は完全にオールドな人間で、ほかのブログではたとえば「ネットの可能性とは!」とか「ブログで稼ぐ!ネット時代の稼ぎ方!」みたいな最先端の話が多いわけです。

そんな中で、何がテレビだと。お前イマドキテレビなんか見てるのか、というような感じにテレビを語る人は思われてしまうわけです。

まず大前提となるのがそういうことで、まあ当然テレビを見ていてもそういう話は一切ないわけです。新聞が新聞はオワコンだ、などとは言わないように、テレビもテレビはオワコンだ、とは言わないわけです。

もし、今PVなりなんなり、知らないけどテキストを書くなら、「ネットについて」書くほうが断然人々の関心は高いわけです。それはもう頭のいい人は分かっていて、そういう風に言っている有名人もいます。

それが今テレビがいる地点なんです。

だから、みんなやりたいことを、ネットを使えば簡単に実現できるんだから、ガンガンやってしまっているわけです。

お笑いが好きな人はネットでお笑いタレントのtwitterフォローして、ライブなりなんなりまあ色々と情報を取れるわけです。

じゃあ、テレビのやれることって何よ?ってことなわけです。

それを考えていかないと、本当にテレビは影響力がなくなってしまいますよ、ということです。

ネットとテレビ

このブログの元々のコンセプトはアニメや美少女ゲームなどについてあーでもないこーでもないと語るものだったのですが、じゃあそういうことが出来るのは何か? となるとこれは当然ネットがなければ無理だった。

色々とネット上で起こる様々なことに現在日本人は色々と踊らされているわけですが、そういう中でよくも悪くも我々はネットと付き合わざるをえないようになったわけです。

そうした中で、アメリカ大統領選などを経て、日本でもネット上の政治的言説のイシューというのがあって、もちろん最初期には2ちゃんねるという部分で社会的な問題となっていたこともありましたが、今ではテレビのニュースがネット上の<出来事>を後追いの形で報じるようになったわけで、これまでは当然テレビ→ネットだったのがネット→テレビになったのがこの2016年に起きた出来事だったと思います。

 

で、さる先日有名人が「テレビのお笑い」を批判したところ、当のお笑い芸人たちから猛然と非難が巻き起こり、その有名人がテレビに出て釈明するような事態にまで至りました。

これで、「テレビの人」(略してテレビ人とでも言おうか)たちは「よしよし。これでわかったな。もうテレビの悪口は言うなよ」と溜飲を下げたわけですが、当然ながらネット上の人達はそれを冷ややかな目で眺めていたわけです。そもそもその有名人のtweetに対してネット上ではそのtweet内容そのものは割りと賛同されていたように思います。

私のブログではテレビの影響力は少なくなっていると何度となく別の所含めて書いてきているわけですが、もちろん、何の影響力もないわけですが、その中でその有名人は「テレビ人」でもあったわけで、いわゆるこれは「王様は裸だ」と言ってしまったことに原因があるのでしょう。

だからこそ、テレビの方では過剰な反応が返ってきた。しかし、その波は止められないでしょう。もちろんすでに<制度化>しているテレビは、「テレビって面白いですよね~テレビ見ない人なんて遅れてますよね~あーテレビって流行ってるなあー!!」というような主張をするわけですが、その中でその有名人の方は「え? 日本のテレビってつまんなくね?」ということを言ってしまったわけです。もしこれを看過してしまえば、ほかの大勢の人達が「そうなの? もしかしてテレビって見なくてもいいの?」などというようなことに気付いてしまえば、それはもう大変な事態になってしまうわけです。だからこそ、大騒ぎして、有名人をテレビに出して釈明の弁を述べさせたわけです。あれだけやれば、今後別のテレビ人が同じようなことを言えば、あのように非難轟々を招くことが分かっているので繰り返すことはなくなるでしょう。

 

さて。

ここまで進めれば、テレビ界がいかに危険な事態に陥っているかがわかると思います。

まず現状認識ができていない。

そして、自浄作用も働いていない。

普通なら、有名人の主張に対し、冷静に見極め、正しいなら(私は当然正しいと思っていますが)その問題点を考えるべきときでしょう。それなのに、釈明させて「間違ってました。すみません。もう言いません。王様は裸ではありません」となってしまったら、これはもう大変なことです。

 

それだけテレビのレベルが下がってしまったということ、またそういうそうに<制度化>がこれほどまでに進んでしまっていることを表す良い事例だったと思います。

 

私の一貫した主張はテレビは役割を終えていくということでありました。

だから、あの有名人の言葉はごく当たり前のことを言っただけで、twitter上でも「ですよねー」みたいな感じで、まあいつもの「テレビはオワコン」トークの一つとして見ていたのに、急にテレビ側から「そんなこと言うな!!!!」みたいな大騒ぎが巻き起こってむしろネット上では「なんでそんなにムキになってるんだ?」みたいな風になっており、この時点でテレビとネット上での「温度差」を感じさせましたね。

 

 

やや長い前置きというか、まあここで大統領選挙の話に繋げると、大統領選ではtwitterが非常に重視されており、すでにネットこそが重要な「メディア」として機能しているということが分かりました。この点、津田大介氏と東浩紀氏のラジオでも言っていたことですが、その意味で非常に「ネットというものが、発達しすぎている」というわけです。

テレビはまだその現状に気付いていません。少なくとも日本のテレビは。それはあの大騒動を見れば明らかで、彼らは全く危機感を抱いておらず、王様はすでに衣服も何もない裸なのだ、ということに気付いていません。

王様は裸だ、とは、権力(パワー)がすでに形骸化して、実質を伴っていない、ということを意味しますが、つまり解説すると、「テレビはただ慣例に従って<エライ>ということになっているだけで、別にその中身としては大して重要でも面白いことでもやっているわけではない」ということです。もしかしたらテレビの中の人は気付いているかもしれませんが、大衆は気付いていないと思っています。だからこそ、有名人に釈明させて、騒動に蓋を閉じようとしました。

日本ではtwitterなどは、(これも何度か言っていると思いますが、ここではないかもしれませんが)SNSと言われますが、コレはアメリカでは普通「social media」と呼ばれます。<メディア>なんです。つまり、テレビと同じ、情報の媒体になるものであり、つまりテレビの競合相手です。

それが日本のテレビは分かっているのか。よく平気で有名人のtwitter投稿をソースにニュースを作ったりしてますけど、それ2ちゃんのtwitterソースのスレ立てと同じじゃん、ということです。

じゃあテレビは何をしたらいいの、というと、それはちゃんと自分たちで取材をすることです。これ以外に当該メディアが生き残る方法はありません。今ではネットニュース局なども平気で各地に取材を行うので、ますますテレビはその競争に巻き込まれることになるでしょうが。

 

今はまだ全然日本の場合テレビは強いわけです。

しかし、アメリカの状況をみれば分かるようにすでに人々は、たとえば大統領の言葉をテレビをソースに聞くのではなく、twitterをソースに聞くようになっています。

もちろんtwitterはテレビに代わりうるものではありませんが、アメリカではネットニュースサイトが力を発揮しているように、日本でも同様のことは萌芽として芽生えつつありますし、YouTubeでは偏向した政治動画が大量に投稿されており、そういう動画に感化されてしまう人達も生まれてきていることでしょう。これはそれまで持っていたテレビの良識や権威が通用しなくなっていることの反作用とでも言うべきことです。

 

今回お笑いの話題からお硬い政治ニュースの話につなげてみたんですが、ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、このテーマは今後も繰り返されるでしょうし、ネットの興隆とともに起こる社会の多面的な変化というのは今後先進国では共通の課題となることでしょう。

正直、その世界的問題からすればお笑いタレントがテレビの枠にしがみついていることなんてどうでもいいことなんです。彼らにとっては当然事業に直結する問題ですから、これは絶対に守らなければならないところですが。

しかし、お笑いタレントは最近ではニュースに関しても発言するようになっており、その点では看過できないものがあります。今回のケースでもお笑いタレントたちがワイドショーという、ニュース番組(?)を持っていたことにより、批判のtweetを取り上げることが出来、それに関して非難することができるという構造があり、じゃあここで改めてテレビってどうなの、ってことを議論できればいいのだけど、まあ当然それはテレビ上でテレビの批判は出来ないので、結果自浄作用は働かず、「俺達は間違ってない!!!」という言説に至ってしまうことが起きてしまったわけです。これは結構危険なことです。タレントはタレントの不祥事やタブーなどには利害関係があるから切り込めないのは当然のことですから。

たとえば、そのタレントが政治的に偏向した主張をテレビで流すように、自発的にしろ権力者から指示されたにしろ、そのようなことが起こり得るわけです。タレントは別に政治の専門家でもなんでもないわけですから、そういう素人意見をテレビで重要な政治問題に関して安易に流して良いのか、ということですし、それを権力者が利用する可能性もあります。だからネットだけの問題ではなく、テレビもかなり危うい兆候はちらほら見えてきているな、というのは感じますね。ネットは割りとすでに偏向し放題ですから、これはネットの問題はまた別項を設けたほうがいいのでこのエントリは以上です。

春アニメ雑感

クロックワーク・プラネットとか武装少女マキャベリズムとかプロモーション映像がエロゲのOPみたいな感じですね。

またエロゲがアニメの模範となってしまったのか。すまんな。

 

特に、武装少女マキャベリズム、ってやつのプロモーション映像がパステルチャイム3のOP映像にそっくりだと。

 

ロクでなし魔術講師と禁忌教典ってやつは、かの名作聖剣使いの禁呪詠唱を想起させる。どちらにも「禁」の字が入ってるしね。なんというか、なきゃないで寂しい感じがするラノベ枠。ニコ動なら楽しめるのだが。ネタアニメというのは、ある種「笑話」としての存在価値はあるのかもなあ、と思う。一番つまらないのは劣等生みたいに笑えないやつだな。この「ロクでなし」ってやつも目指してるのはそういうシリアス系っぽいけど。まあワルブレは作るの難しいよあれは。あのセンス。

リアルなアイドルアニメ

それもうWUGがやったんだよなあ・・・。結果は・・・。

 

パーフェクトブルーでも見とけばいいのでは。

雑記 2017年2月のこと

けものフレンズの記事で当ブログ初の日毎PV100を突破しました。

いきなりではなく、2日ほどかけての右肩上がりであり、それ以前のPVが2とかだったことを思えば、けものフレンズの力を思い知りましたね。でも、それ以降の記事ではそれほど増えていないので、これは記事が良かったのかタイトルが良かったのか。

両方だと思いますが、てさぐれの流れでのエントリというのが多分ない中で書いた、いわばニッチなエントリだったわけです。しかし、その後の主流派に向けた記事では集客力はないことから、やはり俺にはニッチしかないんだなと痛感した次第でした。冗談はさておき、やっぱり記事の厚みというのをみんな見てるんだなと思いましたね。

 

ほかに、今回の件で詳しくアクセス解析(といっても基本機能)を見ていくと、以外にはてなキーワードから古田武彦さんのものが上がっていて、「そんなの書いたかな」と思って検索したら出てきました。なんかいい加減なエントリで申し訳ない気分に。

以外に邪馬壹国関係は調べてる人多いのかな、と思いましたね。邪馬壹国は、そもそもこの「日本以前の国」をどう捉えるかという問題だと思うんですよね。

邪馬壹国もその後は邪摩堆と呼ばれたりと、とにかく色々なわけで、これを「邪馬臺国だ!」と言ったところで、そもそもその基準となる「邪馬臺国」という存在が曖昧なわけです。たとえるなら、東京を指して、「ここは江戸だ!東京は間違い!」とか言うようなものなんですね。いや、江戸も東京も正しいんですよ、と。

表記も、その頃日本には文字がないんですから、それをどう書こうと、どれが合ってるとか間違ってるとかないんですよね。今の我々からすると、なんとなく邪馬臺に収斂させようとしてるわけですが、そもそも文字がない。で、中国の史書が記録としてこういうものだ、と書いておいてくれたから残ってるのであって、その表記を合ってるとか間違ってるとか言ってもしょうがない。だから、これは書かれた通り邪馬壹とするほかないというのが常識的かなと。

そもそも「誤写」であるなら、「真なる文字」があるわけですが、それが「臺」とするのですが、その根拠はやはり乏しいように思えますね。

と、メモ程度に現時点での私の思考を書いておくとして。

 

けものフレンズを6とするとラノベ系は2だったわけですが(残りその他で2)、やはり「最近のラノベ」騒動というのは、ある種の内ゲバだったのかなと思いますよね。ほらミステリでも社会派と本格派とあるでしょ。ああいう風に、こうジャンルが広がると分派ができて、そこでいざこざが起きたりするんですよね。で、いわゆるゼロ年代セカイ系な作品、ある種の批評気分を刺激する作品群からすれば、ファンタジー系というのは、まあ全然そうではないので、そういうのを期待した人達からすれば魔法でドバーン、さすがですわ!みたいなノリには「ついていけんわ!」と思うのも無理からぬこと。この辺、いわゆる本格(パズル系)派に対する社会派の型破りなスタイルが本格側から不満にあったのと似ていますね。

そこで出された最近のラノベに対する批判に、「昔からラノベはこうだった!」という血統における正統性を主張するという不毛な議論にね……。どちらが「正統か」という、ああこれもうアカンというやつですね。

「最近のラノベはこうだ(だからつまらん)」というのに対し、

「いや昔もこういうのあったし!(だから許せ)」じゃなくて、「じゃあどういうのが読みたいのか」となり「ハルヒみたいなの」となれば、詳しい人でおすすめできるのがあるならこれなんかどう?って言えばいいし、ないなら、今はないね、で終わる話なんですよ。たとえばジャンプで「スラムダンクみたいなのがない!」とか言えば「そうだねないね」で終わる話ですからね。そういうすれ違いがあったんではないかと、今では思えますね。まあ今さらですが。

 

けものフレンズに関しては、やはり作品の力だと思いますね。

たとえば、孤独のグルメという、サラリーマンが飯屋でご飯を食う、という説明だけではなんのことかわからないものが、ばーっとブームとなって広まったように、そういうものなんですよね。けものフレンズにしても、そういう引力みたいなものが備わっていると感じますね。