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歴史でないことを、歴史として教えることの害

言うまでもなく、『日本書紀』には、神々のことが書かれている。

 

そして、この神々のことが書かれている本(書物)を基礎に教えられているのが、現在の「日本史」科目の状況である。

 

確かに、神々が実在したとは教えていない。

しかし、日本史科では、時代を下るに連れ、段々とその記述を「事実」として扱うというように変わっていく。

◯◯天皇はいなかった、しかし数年後の◯◯天皇は実在した、

というように。

 

同じ書物に書かれていることをなぜ信用するのか。

批判もなく頭から鵜呑みにするのは、余りにも危険である。

では、一体誰が、どこまで真実(歴史)だと言えるのか。

それは『日本書紀』自体に頼っていても決して見えて来ないだろう。

 

たとえば、今や「聖徳太子」の歴史はほとんど本当とは思われていない。

しかし、日本史ではそれは「事実の歴史」として教えられている。

批判的な考察もなく、頭から鵜呑みにしてこのようなことを教えることは非常に危険である。

 

今や『日本書紀』を「歴史書」として扱うことは、非常な危険が伴うものだということを、歴史に携わる者は肝に銘じるべきである。

こう書くと、「いや、神々や昔の登場人物の話はカットしてますよ」と言う。しかし、なぜ神々の話は歴史ではないのに、その後に書かれた人物の話が「事実・歴史」として扱うのか。むしろ『日本書紀』全体が歴史として扱うには非常に疑義が伴うものであり、批判・検討なくしては扱えないものだということを、なぜ教えないのか。

 

「日本史では『日本書紀』に書かれたことを教えるが、『日本書紀』は神々のことが歴史として書かれている一種の宗教書なので、歴史としてはほとんど扱えません。」

 

まずこのように教科書に書くべきである。

その上で、どこが事実なのか、そうでないのか、創作意図はどこにあったか、などの歴史学として扱うならまだしも、それを「歴史」として覚えることは、神を実在として扱うのとほとんど同レベルだということだ。

日本史はほとんど『日本書紀』に書かれたようなものとは違うものだろう。

つまり、日本史というものは、ほとんどその初期の形態は「分かっていない」のである。分かっていないのに、「聖徳太子はいる! なぜなら『日本書紀』に書かれてるから!」という論法が通じるなら、他の神々や昔の人物も『日本書紀』にかかれているのだから「そのようなことがあったし、そのような名前の人がいて、書かれた通りのことをした」ということになってしまう。

それは「『日本書紀』教」である。 

信仰するのは勝手だが、「歴史」として教えることは間違っている。

もちろん、「全部が嘘」とは言わないが、『日本書紀』はむしろ「どこが嘘か」ということを探っていく書物であり、また異論が多く出ている学問的に信憑性の怪しい書物(何しろ神の話が実在の歴史として書いてある)であり、これを基礎として歴史を教えるのは非常に危ないと言えるだろう。

天孫降臨の夢―藤原不比等のプロジェクト (NHKブックス)

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