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インターネットで何ができる?

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雑記 2017年2月のこと

けものフレンズの記事で当ブログ初の日毎PV100を突破しました。

いきなりではなく、2日ほどかけての右肩上がりであり、それ以前のPVが2とかだったことを思えば、けものフレンズの力を思い知りましたね。でも、それ以降の記事ではそれほど増えていないので、これは記事が良かったのかタイトルが良かったのか。

両方だと思いますが、てさぐれの流れでのエントリというのが多分ない中で書いた、いわばニッチなエントリだったわけです。しかし、その後の主流派に向けた記事では集客力はないことから、やはり俺にはニッチしかないんだなと痛感した次第でした。冗談はさておき、やっぱり記事の厚みというのをみんな見てるんだなと思いましたね。

 

ほかに、今回の件で詳しくアクセス解析(といっても基本機能)を見ていくと、以外にはてなキーワードから古田武彦さんのものが上がっていて、「そんなの書いたかな」と思って検索したら出てきました。なんかいい加減なエントリで申し訳ない気分に。

以外に邪馬壹国関係は調べてる人多いのかな、と思いましたね。邪馬壹国は、そもそもこの「日本以前の国」をどう捉えるかという問題だと思うんですよね。

邪馬壹国もその後は邪摩堆と呼ばれたりと、とにかく色々なわけで、これを「邪馬臺国だ!」と言ったところで、そもそもその基準となる「邪馬臺国」という存在が曖昧なわけです。たとえるなら、東京を指して、「ここは江戸だ!東京は間違い!」とか言うようなものなんですね。いや、江戸も東京も正しいんですよ、と。

表記も、その頃日本には文字がないんですから、それをどう書こうと、どれが合ってるとか間違ってるとかないんですよね。今の我々からすると、なんとなく邪馬臺に収斂させようとしてるわけですが、そもそも文字がない。で、中国の史書が記録としてこういうものだ、と書いておいてくれたから残ってるのであって、その表記を合ってるとか間違ってるとか言ってもしょうがない。だから、これは書かれた通り邪馬壹とするほかないというのが常識的かなと。

そもそも「誤写」であるなら、「真なる文字」があるわけですが、それが「臺」とするのですが、その根拠はやはり乏しいように思えますね。

と、メモ程度に現時点での私の思考を書いておくとして。

 

けものフレンズを6とするとラノベ系は2だったわけですが(残りその他で2)、やはり「最近のラノベ」騒動というのは、ある種の内ゲバだったのかなと思いますよね。ほらミステリでも社会派と本格派とあるでしょ。ああいう風に、こうジャンルが広がると分派ができて、そこでいざこざが起きたりするんですよね。で、いわゆるゼロ年代セカイ系な作品、ある種の批評気分を刺激する作品群からすれば、ファンタジー系というのは、まあ全然そうではないので、そういうのを期待した人達からすれば魔法でドバーン、さすがですわ!みたいなノリには「ついていけんわ!」と思うのも無理からぬこと。この辺、いわゆる本格(パズル系)派に対する社会派の型破りなスタイルが本格側から不満にあったのと似ていますね。

そこで出された最近のラノベに対する批判に、「昔からラノベはこうだった!」という血統における正統性を主張するという不毛な議論にね……。どちらが「正統か」という、ああこれもうアカンというやつですね。

「最近のラノベはこうだ(だからつまらん)」というのに対し、

「いや昔もこういうのあったし!(だから許せ)」じゃなくて、「じゃあどういうのが読みたいのか」となり「ハルヒみたいなの」となれば、詳しい人でおすすめできるのがあるならこれなんかどう?って言えばいいし、ないなら、今はないね、で終わる話なんですよ。たとえばジャンプで「スラムダンクみたいなのがない!」とか言えば「そうだねないね」で終わる話ですからね。そういうすれ違いがあったんではないかと、今では思えますね。まあ今さらですが。

 

けものフレンズに関しては、やはり作品の力だと思いますね。

たとえば、孤独のグルメという、サラリーマンが飯屋でご飯を食う、という説明だけではなんのことかわからないものが、ばーっとブームとなって広まったように、そういうものなんですよね。けものフレンズにしても、そういう引力みたいなものが備わっていると感じますね。