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サブカル・アニメ・少女漫画

タイトルに困ったら三題噺にするという怠惰。

 

増補サブカルチャー神話解体を(再)読む。まあ本棚発掘。

 「少女マンガ分析の三元図式」というものがあって「里中領域」と「岩館領域」と「萩尾領域」というのがあって、こういわれて、今の読者がどれだけ分かるのかと思いますが、こういう「図式化するぞ!」という欲求が現れているのが面白いですよね。

 

なんともIQの高い時代だった思いますね。

今、これだけのテキストが書かれることがあるでしょうか。

YouTubeのコメント欄は「すごwwww」「それなwwwww」「わかるwwww」

という、ここはVIPか? という状態にあり、マンガブログの大半は「この広告は一ヶ月更新のない云々(でんでん)」という有様。

あとは、よくて話のあらすじが書いてあったりする程度で、他のtwitterでは「(キャラ名)かわいい」とかそういうもの。あとは卑小な「誰が良い奴か議論」という毎度繰り返されるオチのないコミュニケーション。

恐らく90年代のこうした状況こそが、エヴァンゲリオンを呼び、謎本エヴァサイトブームを呼んだのだろうとは思いますね。

やっぱりこれだけの歴史を整理して、おまけにモデルまで提示しようという勇気を持つことは大変なものがありますから。

 

このように整理されてみると、我々(男のオタクども)が呼んでいた「日常系」なるアニメ群も、すでに少女マンガに先取られていたことがすぐに分かります。それは言うまでもなく少女漫画を盗み見るということと同じであり、それまであったラブコメの「男→女」という図式から、男が消去されたものと、少女漫画の「私小説中間小説(岩館)」のブレンドということが分かる。

それはアニメらき☆すたでのオヤジがOPで電柱から女子高生を覗き見ている様に象徴的に現れている。そしてそこからのけいおん、そして完全に少女漫画として覚醒するたまこ劇場版へとつらなる一連の少女漫画のDNAが見出される。

これは「美少女」が、常に少女文化から少女を略奪してくる文化だということを考えれば、少女文化がそれに先行するのは当然だと言えよう。

「日常系」とは要は「美少女の日常」ということであるから、その表現が遅れてくるのは当然である。ただ、「美少女」は「少女」ではないのであって、そこに男側としてのねじれ、歪み、改ざん、捏造が生まれるのである。

ササキバラゴウ的に言えば「君のことを僕は理解してあげるよ」という言明が不可能になり、男の消滅が起こった。

それはこの本で言えば、柴門ふみ的な「無害な共同性」すら維持不可能になったという相手とのディスコミュニケーションがある。今も「無害な共同性もの」はたくさんある。一番は「冴えカノ」だろう(俺ガイルはむしろ無害な共同性の暴露だったが、それは少女漫画と同じように暗くなっていった。)。最近で言えば「エロマンガ先生」だろうし、当然俺妹もそうだ。しかし気づくのは俺妹もエロマンガ先生もどちらも兄(義兄)として関係性を偶有性から更に下げるための工夫が凝らされている。もはや男作品では、そのようにかなり注意深く設計しないと、偶有性の上昇に対処できないことが分かっている。このことに少女漫画の方がなぜ敏感だったのかと言えば、少女は「選ばれる側」であり、少年は「選ぶ側」という非対称性があることが本書には書かれており(まあ俺は選ぶ側になんてなったことは一度もないですけどね。ハハハ)、やはりその非対称性はいまだに男性向けコンテンツでは隠蔽されたままである。どうでもいいが、少年向けラブコメの創始とされる『翔んだカップル』(78)にすでに「風呂場で出会ってドッキリ」があり、ラノベアニメの着替えドッキリはもはや伝統芸能の領域だということが分かる。

この「無害な共同性」は、要は柴門ふみでは「高校時代の仲良しグループ」が、社会人になっても存続し、その中で恋愛が描かれることで関係性の偶有性を回避する回路があるということである。

これは俺妹でいえば「オタクっこ集まれ」の会であり、オタクであることが黒猫とバジーナの共通点であった。妹の桐乃は言うまでもない。

それがエロマンガ先生では、今度はラノベ作家ということで周りに人が集まるという共同性が描かれる。無論、人がつながるには何らかの共通点がなければ成り立たないのが当たり前だが、少女漫画では、ある時、そういう物語上のお約束を破り、より写実的な方向に進み、進みすぎたがために破綻したという経緯があるのである。それは本書によれば柳沢みきおもそうだという。

しかし、今書いたことは本書によれば「新人類」の部類なのだ。

ではオタクはどうするのかといえば、オタクは「異世界」を作ることで、関係性の偶有性から逃避するのだという。

つまり、近年の「異世界ものブーム」は完全に予言されていたことであり、逆に言えばオタクにとって正しい逃避方法なのだと言うことが出来るだろう。

 

では、この本に書かれているモデルはどこまで有効なのだろうか?

この本にはサブカル(漫画やアニメ)四象限があり、まあそれぞれあるのだが、その中の枠組みに収まっていないと感じるのはセカイ系だと思う。

では、「最近のラノベアニメ」によくある、「学園魔法バトルもの」は何かと言えば「陳腐な終末世界」に該当するだろう(エロマンガ先生ラノベだが、そんなことはどうでもいい。「最近のラノベ」アニメといえばつまり俺TUEEEのことなのである。それはそういう定義なのであって、最近とは何かとか、他にもこんなのがあるとかそんな下らねえことは犬にでも食わせろ)。挙げられてる作品は、マクロスパトレイバーアップルシード

まあこれはSFばかりだが、それをファンタジーに適用したのがラノベだと言えるだろう。それはRPG的であったり、巨大学園であったり、ビーム兵器と魔法が共存していて、教練学校に入った主人公が落ちこぼれと言われつつ実は超強いというような形だ。

そこで描かれるのは基本的に「日常」である。四象限では、「陳腐な終末世界」は「日常性(大世界)」側にある(もう一つの小世界は「無害な共同性」(アラレ・うる星))。つまり描かれているのは「世界の終わり」だが、それは日常化している。確かにラノベでいかに「究極の悪」や「世界を終わりにする魔法石」が語られようとも、もはや誰もそれをサブライム(崇高)だとは思わないだろう。

それは、完全にパロディであり、ある種「バスケの部活」(日常性)と変わらない。で、バスケの部活で「このシュートを決めてあのコに俺のいいとこ見せてやろっと」程度の緊張感しか持っていないのは明らかだろう。

だから、「魔法学園」か「異世界」かなどというのは、なんの意味もない議論だということが分かるだろう。

そういうふうなことが分かっていれば、そういう議論に巻き込まれる心配はなくなるので、読者の方でお悩みの方は、これからはそんな話は「どっちも同じじゃん」で済ませられるということである。

 

この手の本の楽しみ方はやはり後年から見てどうなのかという点であって、93年に単行本で出た本の話が、どれほど生きているのかというのを見つけるという好事家的な楽しみですね。そんな奴ぁいねえかもしれないが。

たとえばこれを用いて涼宮ハルヒの新しさを述べたり、まどか☆マギカの凡庸さを述べたりできるわけです。けいおんのレシピも見えたりするわけですね。

この本の面白さは、そういったオタク系だけではなくて、新人類系という、今あるのかしらないけど、そういう存在、歴史的な存在に光が当たっていることですね。

多分、この本のクラスター分析(?)でいう、新人類の人達は、今はお笑いとかにコミットしてるのかな? 少し前には(何度目かの)アイドル論とかですかね。わからないけど、やっぱりそういう人達はいると思うんですよね。多分社会学系に多いと思うのですが。そういう話がセットになっているのが面白いですよね。今はオタク系といえばオタク系。アイドル系といえばアイドル系と別れてしまってますからね。

ラブライバーアイマスとの差異とかね。あれは前者が新人類で、後者がオタクだったのではないかというアレなんですが、新人類もラブライバーにまでなったと言ったらそれは反論されそうですが。それともラガード?

しかし、こういう分析がどことなくうそ寒いというのが今なんですよね。それは類型化の胡散臭さがあるからで、その点不透明なわけですが、流動的なだけで、また誰かが類型化してくれる時期がいつか来るのだろうなと思います。