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涼宮ハルヒの衝撃

涼宮ハルヒの憂鬱』とは何だったのでしょうか。
それは、それまでにあった「ライトノベルの形式」を破壊し去った作品として、君臨したのです。

どういうことでしょうか。
涼宮ハルヒの憂鬱』の包含する<世界>の定義から始めるのがいいでしょう。
その<世界>は、いわばテンプレートともいえる「平凡な高校生モノ」と言うべき<世界>のことです。
そして「平凡な高校生」が、様々なことに巻き込まれる、というのがある種の「ライトノベル」の型なわけですが、『涼宮ハルヒの憂鬱』はこの作品に風穴を開けてしまった。
それは、一つの優れた作品としてメタフィクションを構築してしまったということです。

「平凡な高校生モノ」は、何もライトノベルに限るものではなく、多くの美少女ゲームと呼ばれるゲーム群にも採用されている型ですし、ほかに『ペルソナ』に代表される「JRPG」などにも採用される物語の<世界観>です。
現代の、改変なしの現実を生きる高校生が、怪奇(ファンタジー)現象に巻き込まれることというものはいくつもありますが、筆者の個人的なライフヒストリーでは『ブギーポップは笑わない』という作品が、ライトノベルの中では印象を残しています。もちろん、ライトノベルの歴史の中では無数の類型の<世界観>を持つ作品があるでしょう。

涼宮ハルヒの憂鬱』はそれらの「平凡な高校生モノ」に共通の型をメタ的に包含してしまいました。

この中に、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上(『涼宮ハルヒの憂鬱』より)

このように啖呵を切ったハルヒの生活は、しかし、平凡極まりないものでした。
キョン自身は本当に平凡(普通の人間)だが、それ以外の人間はみなそうではありません。
しかし、物語はそのような「逸脱」を抑制します。なぜかといえば、それはあくまで「ライトノベル」でなければならないからです。「ライトノベル」の持つ世界とは、あくまで十代、二十代の市民(ブルジョワジー)にとって、その世界を「認識」させるものの範囲でなければなりません。
だから、社会的に逸脱した人間を描写したり、投げかけることは慎まなければなりません。
それはあくまで「キャラクターの経験」であって、必ず「元の現実」に返ってこれる範囲でなければなりません。
そして、平穏で保守的な現実を再認識するという効果を発揮する必要があります。
だから、『涼宮ハルヒの憂鬱』の中で、ハルヒはごく当たり前の日常を生きているに過ぎません。
読者はその裏側の世界を見ていますが、もしハルヒ視点の『涼宮ハルヒの憂鬱』があれば、それは非常にごく当たり前の日常になっているでしょう(この点、のちに勃興する日常モノの観点が裏書として表れていることに驚きます。ハルヒは日常モノの始祖でもあるのです)。
キョンは普通だし、古泉は単なる転校生、長門はただ本を読んでいるだけの無口な女子生徒、みくるはごくありきたりの女子生徒でしかありません(もし仮にみくるが絶世の美女だったりしたら、ハルヒならアイドルデビューぐらいはさせるだろう(そういう話があるかは知りませんが))。
キョンや古泉の役回りとは<世界>を保守的なものにとどめるように努力することです。
これはある種ライトノベルという市民(ブルジョワジー)の娯楽の世界を現しているように見えます。
涼宮ハルヒの憂鬱』はライトノベルメタフィクションなのですから、ライトノベルそのものに対する批評の視線が混じるのは当然のことなのです。
仮にこのままハルヒが成長し、大学に進んだ場合(というか進むのだが)、ハルヒがたとえば「現実の世界の改変」を望んだ場合はどうなるでしょうか?
たとえば、それ以降、ハルヒが政治に目覚めたりした場合、この世界はハルヒが望むように改変されてしまうことは明らかです。
ハルヒが「〇〇イズム(なんでもいい)」ということを考えただけで、それは世界に反映される。
もちろん、これをギャグ的に描くことは可能です。
『総理大臣 のえる!』という作品では中学二年生の女子中学生が悪魔との契約で総理大臣になるという話が語られます。
しかし、それはギャグということでリアリズムとしては語られません。
一方で『涼宮ハルヒの憂鬱』はリアリズムの作品なので、そのような「世界の逸脱」は避けなければなりません。
涼宮ハルヒの憂鬱』の限界が、ライトノベルという市民娯楽の型の限界そのものに達していることが分かっていただけたでしょうか。
涼宮ハルヒの憂鬱』はメタ思考の階段を昇りつめ、その天井はライトノベルという型の限界を示してしまったのです。

一方で、そこからとりこぼされた「ハルヒの日常」は日常モノとして、再び市民娯楽の安逸な生活を確保することに市民娯楽は成功しました。
それはハルヒ的な世界改変を望むのではなく、さらに保守的に、今ある目の前の日常生活を享受することに視線を向けることで、ハルヒ的な問題を回避する方向でした。
しかし、四コマ漫画ならそれでなんとかなっても、ライトノベルという形式では難しい。
ライトノベルはこの破壊つくされた「平凡な高校生モノ」以外の道を探さざるを得なくなった。
一つの道は「学園異能(魔法)バトルモノ」です。
そもそも現実の学校でなければ、ハルヒ的問題は発生しない。
そこにある「学園」は現実の平凡な学校とは無関係なのだから、ハルヒ的な問題は発生しない。
もちろん、過去にこのようなハルヒ的なメタフィクションはあったかもしれないが(なんといってもメタフィクションの歴史は長いのだ)、ハルヒが破壊したのは、今の学園モノであり、それは今のリアルです。
昔の「高校生」と今の「高校生」は違うのですから、以前の破壊から建設が進んだ結果、再び破壊的なメタフィクションが登場することで破壊が進行するということはあり得ます。

同様の結果が「異世界ファンタジーモノ」ということができます。
これもごく普通のエンターテイメントの形式であり、むしろ伝統的といってもいい。
VRMMOは、面白い問題を提供しているようにも思えますが、どこまで可能性が広がるかは分かりません。
それはリアリズムによって可能性が広がるように思えますが、人気なのは古典的な「エンタメ」としての作品であるようです。

ついでといってはなんですが、「異世界転生モノ」の限界も述べましょう。
それは「現実の世界」がやはり限界点なのです。
もちろん、単にゲーム・ファンタジーを世界の中で再確認する、ウロボロスのような作品は、すぐにネタ切れに陥るでしょう。
その作品の限界は「ゲーム・ファンタジーの話」を模倣することですから、せいぜいラストはドラクエか、JRPGモノに似たものになる、という予定調和を迎えるだけだからです。
そうではなく、むしろいわば「知識無双」とでも呼ぶべき作品群も、結局は植民地主義的なロマンを提供するに過ぎません。
ですから、仮にその土地に科学施設などが建設され、産業化が行われたとして、それは主人公自身が逃れてきた「近代的小市民(ブルジョワジー)」の世界を、再びその「異世界」に出現させることにほかなりません。
もちろん、その矛盾を無視する限り、何かしらの「達成感」をもって終わらせることはできるでしょうが、さすがにその矛盾に気づく読者も多いのではないでしょうか。
「異世界モノ」は「ユートピアモノ」につながる概念です。
だからこそ、私は別所で「異世界モノ」をユートピアモノにした作品を描いたことがありますが、これは単なる「魔王も何もいない理想世界」が形成され、異世界転生というものは完全にユートピアモノに変貌してしまいました。相似形というべき形で、それはそのまま変形できてしまいました。
なぜなら、わざわざチート能力など持たずとも、最初から転生先の世界がユートピアなら、話はそこで終わってしまうからです。
少し考えれば分かることですが、主人公が住む「異世界」はひどく不平等な世界なのですから、その「社会改良」を考えることが普通だと思いますが、まあそういうことは等閑に付されるのが当然です。このような矛盾は「現代の高校生モノ」を無理やり異世界モノにつなげることで生まれる矛盾でしょう。

「異世界転生モノ」で言われるのは「ファンタジーの復権」と思われていますが、現実はそれは「現代の高校生モノ」の変形だということがお分かりいただけたでしょうか。
それは、いわゆる「ファンタジー」と呼ばれる「異世界そのもの」を作ることが目的なのではなく、あくまで「現代の高校生の生活・願望」を描くことが目的なのです。
だからこそ、主人公は異世界住人ではなく、現実の高校生でなければなりません。現実においての怪奇(ファンタジー)はハルヒによって破壊されたので、それは「異世界転生」という形式で全くの別種世界に旅立たなければならなくなったのです。